戻る > 夜明け色の瞳の魔術師 > 第一話

夜明け色の瞳の魔術師

 数日前から降り続いていた雨も上がり、雲の切目から覗いた太陽が、水溜まりに光を反射させる。湿気を多分に含んだ独特の空気が肌に重く感じる。
 幾人かの街を歩く人々の手には折り畳まれた傘がぶら下がっている。雨は朝の内に止んでしまったのだから、彼等は早朝から仕事などで出歩いていたのだろう。傘を持っている人はやはりというか、背広やスーツを着こなした人ばかりだ。
 梅雨入りして数日。立野宮市駅前は数日ぶりの晴天からか多くの人で溢れていた。
 駅前の五分遅れていることで有名な柱時計は、午後の四時を指していた。時間も時間なので学校帰りの学生の姿もちらほらと見え始める。学生らの大半は、立野宮市街の中心に位置する駅を利用し通学する高校生だ。
 そんな学生の中、御坂誠司は周りより少し早く自転車のペダルを回していた。自転車を追い抜き、徒歩の学生の間を縫うようにすり抜け、追い越していく。
 学校帰りの学生にしては珍しく、誠司は一人だった。決して、クラスに仲の良い友人がいないわけではなかったが、彼等の多くは、部活という名のアフタースクールに青春を桜華させている。
 誠司は部活動に参加していない。正確には色々な事情があり参加できない。他方面からよく誘いはくるものの、全て断っている。助っ人扱いでの参加の懇願も前文に同じである。
 駅の前の大通りを道に沿って誠司は自転車を走らせた。スピードの乗った自転車は、水溜まりの上を走って周囲に盛大に水を跳ね散らしたが、周囲に人がいなかったことが幸いに、被害は誠司のズボンのみに収まった。少し剥き出しの足首に掛ったが、それが妙に気持ち良かった。
 この街━━━━立野宮市は多少都会から離れた所に位置している。だがしかし、田舎というほどの田舎でもなく、駅周辺には大型デパートの系列店や全国規模のファーストフードのチェーン店。大型家電製品の販売店などもある。ただ、都会のように背の高いビルが空を埋め尽すように所狭しと建ち並んでいるわけではない。なのに住民、交通量ともに多いのには訳がある。
 三年ほど前に高速道路のインターがこの街に出来上がったのだ。それから、立野宮市と都会との行き来が簡単になり、この街に人口が増え始めた。その結果、立野宮市はいまやベッドタウンとなりつつある。
 誠司の目の前に迫った大きめの交差点。その信号が赤に変わり、誠司は自転車のブレーキを握る。路面は雨のせいで滑りやすくなっていたが、早めにブレーキを掛けたため特に問題もなく信号の前で停車した。
 この交差点はその高速道路へと続く三車線道路と、駅前から続く道路とのバイパスにあたり、街中最大の交差点になる。当然のように通行量も多い。
 誠司の周辺にも同じように、交差点を横断しようと立ち止まり信号を待っている人の姿が、数多く見受けられる。さすが最大の交差点だけあって、その信号の周期は長く、多くの人が一時的にしろそこに集まるのは必然と言えた。
 誠司は交差点の端━━━━対角に目を止めた。ごくありふれた、オレンジ色の一本のカーブミラーがガードレールの内側に立っている。普段は誰もが、たいして注意深く見ることなどなく、例え注意して見たところで、べつだん、変わった所など見つからないだろう。
 ━━━━普通の人から見れば、だが。
 誠司はズボンのポケットから携帯を取り出し、時刻を確認する。
 (ちょっといつもより遅かったかな……)
 四時十分を表示した携帯をポケットに再びしまい込む。その時間は『いつも』より十分遅かった。
 誠司は自らの左眼に意識を、己が身に満ちる霊力を集中する。それは一瞬━━━━、
 「封印解放━━━━、」
 瞬間、誠司の左眼は色彩を失い、その何もない白に蒼の六芒星が浮かび上がる。それを円形に囲むように不思議な記号が刻みこまれる。
 「━━━━発現」
 一度、瞬きをすると、そこに刻印を刻んだ澄んだ蒼色の瞳があった。まるで深い海の様に綺麗で、それでいて不気味なほど吸い込まれる━━━━光を反射せず感情を写さない瞳は、しかしそれを普通のものとして捉えていた。
 今まで何もなかったそこに、一人の少女が静かに佇み虚空を見つめていた。
 背は誠司の肩より少し低いぐらいに見える。古めかしい、白色の着物を着込み、足には小さな朱色の下駄を履いている。長い黒髪を、やはり朱色の小さな簪で留めていた。
 服装だけ見れば、時代劇にでも出てきそうだ。だが、彼女の服装は━━━━あれは死に装束だ。
 特に眼を引いたのは、彼女の足首に巻き付いた、分不相応な程に太い漆黒の鎖。先を辿ると、地面から生えていることがわかる。
 彼女を見つけてから八年。誠司はこの交差点に来る度に、彼女を見る。
 交差点の歩行者信号が青に変わる。誠司の周囲が動き出した。誠司も自転車を引き、対角線上に渡る。ガードレールの側まで行くと左眼の刻印が一瞬輝く。
 「棗、」
 誠司は自らの左眼にしか映らないと知っている少女に、あえて口に出して話しかける。
 『……誠司君、今日も来てくれたんだ……』
 「約束だからな……」
 一言、言葉を交すと、少女は虚ろな眼を誠司の方へ向け、徐々に表情を綻ばせた。同時に彼女の瞳に何処か正気が宿り、先ほどまでの何処を見ているのか分からない不気味な感じが消えた。
 少女は祈るように薄く目を閉じると、全身を光が淡く包み込む。少女自身の霊力の一部を普通の目には写らない体に流し、質量を与え━━━━全ての人に見えるようになった。
 その光景を見ていた者はほとんどいないだろうが、もし見ていた者がいたならば奇妙な感覚に陥ることだろう。何もない所に向けて話しかけていた誠司に気味が悪くなるわけではない。いきなり現れた少女に驚くわけでもない。ただ奇妙な、擦れ違う感覚。
 視覚的にそこに突然現れたはずの少女は、認識や記憶の中では初めからそこに立っていたように感じ、その違いに戸惑うのだ。視覚を除く感覚の意識下に少女という存在が抵抗無く滑り込むのだ。
 少女が現れると同時に、彼女の足首から伸びていた鎖は消えた。
 「っていうか、来てくれたんだ……じゃないだろ。また虚ろな状態になってたぞ?」
 まるで幼子をたしなめるかの様に優しく言う。
 「ご、ごめんなさい……誠司君がいなくなってからも二十時間ほどは自我を保てるようになったんだけど……」
 棗と呼ばれた少女はしょんぼりと肩を落とす。誠司はそんな棗の姿に軽く苦笑した。
 「まぁ、昨日は時間がなくてすぐ別れたからな……。意識して少しずつ時間を増やしていけば良いさ」
 「うん……」
 棗はふっと消える。といってもそれは質量を操作し稀薄になったに過ぎない。つまりは出会ったときの状態に戻ったのだ。同時に漆黒の鎖が再び彼女の足首に現れる。
 誠司はその非現実的な光景を始終『視て』いたが、別段、驚くこともない。彼女の正体を知る彼にとってそれは当たり前のことだったから。
 ━━━━彼女が一般的には幽霊と呼ばれる存在であることを知っているから。
 『今日はどこ行くの?』
 棗が控えめな声で誠司に訪ねた。
 (病院にな……一昨日、愛美のやつが仕事中にミスってな、入院してるんだ)
 考えることでコミュニケーションが成立する。声を発したわけではない。棗の声も周囲には聞こえない。それを可能にしているのは誠司の蒼の左眼だ。伝えたい言葉だけを正確に彼女に伝え、彼女たちのような存在の意思を正確に組取る能力がある。
 (っと、その前に図書館に寄ってく。あいつに本借りて持ってこいって言われてんだ)
 『誠司君は妹想いなんだね』
 (別にそういう訳じゃないさ)
 棗はただ笑い、誠司の自転車の荷台に腰を降ろす。質量がなく、目に見えないのだから、その行為に意味はないが、それでも彼女は誠司の自転車の荷台に座るのが好きだった。
 誠司は棗を確認すると、自転車を走らせた。自転車に合わせて、棗と、彼女に巻き付く鎖とが移動する。地面から延びる鎖の長さは常に変わらず、全てが見える誠司にとっては、さながら地面ごと移動しているように見えた。
 自転車を漕ぎ、道なりに真っ直ぐに進む。駅前であるからして人通りは比較的多いが、自転車を引かなければ通れないというほどではない。
 『それにしても、結構込み合ってるね』
 (まぁ、そりゃあ駅前だしな。この時間帯、さすがに帰宅ラッシュには早いが、学生にとっては最高の自由時間だからな)
 実際、駅前のカラオケだのボーリングだのゲームセンターだのがならんだ道沿いにたむろしているのは学生服を着たままのグループばかりだ。
 『なんか誠司君がそういうと、もっと歳取ったおじさんみたい』
 (まちがいなく、俺は高校生)
 棗の笑い声が聞こえる。小さい声。でもそれでいて明るい。
 棗と同じような存在は、霊視と呼ばれる『術』を使える誠司のような特殊な人間にしか存在を認識されず、またそんな能力をもつ人間は少ない。そのために公には知られていないが、彼等は認識できる人間同様に数は少ないながらも多数存在している。
 彼等は一般的に幽霊と呼ばれているものの一つで、しかし霊視える者たちは彼等を含む『一般的に幽霊と呼ばれているもの』をある基準の元に区別し、呼び分ける。誠司のように霊の視える者たちは、棗のように『死んだ人間の魂がそのままに残っている霊体』のことを霊魂と呼ぶ。
 「おっと、」
 ブレーキを握り込む。キュッと軽快な音をたて自転車が止まった。前方に気が向いてなかったせいか、危うく道路に飛び出すところだった。信号は赤だ。当たり前のように車が目の前をハイスピードに横切っている。飛び出したらタダでは済まないだろう。
 『なかなか危険な運転……あぶないよ?』
 (……ちょっとよそに気が行ってただけだ)
 棗がくすくすと笑う。しかし、それが聞こえるのも勿論、誠司だけだ。同じよう信号が変わるのを待つ通行人は身向きもしない。当たり前の行動。当たり前の、日常。
 (いいな、こういうの。普通に話して、普通に笑って。誠司君のお陰だよ……)
 棗は感謝している。自分を救ってくれようと……いや、救ってくれた誠司に。
 自分がいつから存在していたのかわからない。なぜ幽霊になったのか、それは記憶の彼方に消えてしまっている。誠司に出会う前の記憶は途切れ途切れで、しかしその中には生前の物はない。
 時間の感覚はいつから無くなっていたのか。自分が何してるのかすら分からなくなったのはいつからか。ずっと感じてきた孤独。何にも触れられず、誰にも意識されず、言葉を交わす相手さえいない。太陽の光の暖かさも、水の冷たささえ感じられない。まるで暗闇の洞窟に一人、閉じ込められたような感覚。それだけが意識に刻み込まれていた。
 それが存在の代償だった。自我は崩壊寸前まで追い込まれていた。自分が歩いているのかそれとも立ち止まっているのか。何も分からない。考えない。時に気付いたら空ばかりを眺めている。何日も何日も、過ぎ行く雲だけを目で追って。
 全てを失いかけていた━━━━自分が、誰であるのかさえ。
 (でも、)
 残っている記憶が混線する。一つは五年前。まだ幼さの残る誠司が棗を見つけた時の風景。そして、もう一つ━━━━
 (おぼろげに……重なる風景がある。多分、ずっと昔……誰か、誠司君の前に……私と接してくれた人がいた。とても……大切な人。でも思い出せない……)
 棗は考える。見えるはずのない棗を見て、そして接してくれた人がいたはずなのだ。しかしどんなに思い出そうとしてもモヤがかかったように思い出せない。それは長い時間の存在の代償か、それとも……
 (意図的に……思い出せなくなってるの……?もしそうなら……何故……?)
 以前、それを意識した時にこのことを誠司に話してみたことがあった。
 『棗はその思い出、思い出したいか?もし意図的に記憶を封印しているとしたら、それは辛い記憶だったり、忘れていた方が良い記憶かも知れないぞ……?』
 棗はその時の誠司の顔を忘れることはない。いつも通り優しくて、でもどこか寂しそうで。
 『私は……例えそうだとしても思い出したい……その記憶は私が……私の存在と一緒に背負うものだから……私がそこにいた証だから……』
 自分は非力だ。自分が何かを望むということは、それはもしかしたら━━━━いや、もしかしなくとも誠司に負担を掛けるという事だ。そして誠司なら、棗が望めば全力で協力してくれる。彼は優しすぎるから。

 (おい、棗。置いてくぞ?)
 『えっ?』
 誠司の声に意識を現実に戻すと、既に信号は青に変わっていて周囲にいたはずの人々は横断を開始していた。誠司も自転車を引き、歩き始めている。棗の体は荷台に座った格好のままに宙に浮いていた。物質に干渉することのない霊体は、自ら動かない限りその場に取り残されてしまうのだ。
 『ご、ごめんなさい誠司君。今追い付くから……』
 あせあせと誠司の側へと体を滑空させる。
 道路を渡ってすぐの所。目的地は街の中でもなかなか目立つ、高めのビルの中にある。街の自治体の建てた公共施設が集まるビルで、この二階から四階にかけて図書館が入っている。
 棗は視線をビルに沿って上げていく。数多くの窓に収まったガラスが太陽の光を反射して青く輝いている。
 『高いね……』
 (街の中でも、これだけ高いビルは五つと無いはずだ。まぁ、中にいろいろ入ってるし、仕方ないのかもな。入り口のとこに先に行ってて。自転車置いてから行くから)
 『うん』
 互いに目配せをすると誠司は棗に背を向け、自転車を指定の駐輪場へと引いていった。
 (誠司君……)
 誠司に出会ったことで棗の今はある。しかし、誠司と過ごした時間の中にも欠けた記憶があった。これは誠司にも伝えていないことだ。
 (伝えるのが怖い……余計な心配は掛けたくないよ……)
 胸の奥に抱え込む。言えば解決するわけじゃない。解決するどころか、それが誠司の負担になってしまう可能性すらある。
 ただでさえ誠司に迷惑を掛けていると思う。棗は、それが一体どれだけの負荷になっているのかもわからない。だからこそ、どうしても気を使ってしまう。
 そんなことを考えているうちに誠司が自転車を置き、戻ってくる。棗は慌てて表情を取り繕うと、誠司に笑顔を向けた。

 扉を一つくぐると無駄に広いロビーがそこにある。がらりとした、という表現が当てはまるだろうか。この階にあるのは、入って左側にATM数台と、右側にビル全体の管理室。それだけだ。実際、どの階に行くにしてもここを必ず通過するため、どんな空間にも適していないといったら、確かにそうなのだろうが、このほとんど役割を持たない空間はもったいない気もする。
 しかし冷暖房は完備しているらしく、外よりすこし涼しく温度設定は丁度良い。そんな場所だからか、買い物帰りのような荷物を持った中年女性方々が世間話に花を咲かせ、親に待ち惚けをくらった子供が壁際に寄りかかり漫画を読んで、ここで何をしているのか背広姿の男性がモバイルをいじくっていたり、などと、いたって暇な人の溜まり場となっている。
 『中も広いね……。ただ、なんて言うか、人はいるけど物がない……さっぱりしてるね』
 棗が素直な感想を口にする。
 (そうか、棗をここまで連れてきたのは初めてだっけ?)
 『うん……外から見ることは何度もあったんだけどね』
 棗の笑顔が少し翳ったのがわかった。それもそうだと思う。このビルの見える場所に数えきれないほどの年数、捕われてきたのだ。それこそ、この辺りに何もが無かった頃から。一時期、自我を失っていたにしても、人の何十倍という時間を孤独に過ごしてきたのだ。
 (……悪かった、思い出させたな……)
 誠司は、他者には見ることの出来ない棗がいる方向に顔を向け謝る。棗の古傷をえぐり返したような罪悪感。実際、そうなのだろうと思う。
 しかし棗は首を横に振ってくれる。
 『そんなことない。本当に大切なのは今だから……私がいるのは今、なんだから』
 笑って見せてくれたが、今の棗の笑顔は無理矢理に作ったものだと誠司は気付いてしまう。どこか引き釣った笑顔は、彼女の心のキズを象徴しているようで痛々しかった。
 だが、それを見て誠司に何ができるわけでもない。下手な慰め――たとえそれがどんな慰めの言葉であったとしても、それは軽い。
 それが分かっていたから。誠司は何も言わず、ただ笑みを返した。その無力感を閉じ込めて。
 ビル内を上へと繋ぐエレベーターで二階へと昇る。エレベーターには幾人かの人が一緒に乗り併せたが、二階で降りたのは誠司(たち)だけだった。
 一階とはうって変わって、人の声はほとんど無い。一階と同じ広さの、とても広い室内に誠司が背伸びして手を伸ばしても最上段に届かないというほどの高さのある本棚が、綺麗に規則正しく端まで並べられている。本棚同士の間も人が二人通れるくらいの隙間しかない。
 『すごい……!見渡す限りの本……一体、何冊あるんだろう……』
 棗が感嘆の声を揚げる。
 それもそうだろう。本棚にはほぼ隙間無く本が並べられていて、このような状態が三階層に渡って存在するのだ。その蔵書数は想像も及ばない。今でさえ一ヶ月に百冊単位で購入しているのだ。聞くところによれば、この周辺では最大級の図書館らしい。
 『でもこの中で特定の本を見付けるのは大変なんじゃ……?』
 (いや、以外とそうでもないさ。あそこ見える?)
 誠司が周りに悟られないよう、一箇所を顎で指す。
 『え……、あの画面のこと……?』
 (そう)
 誠司の指した先にあったのは一台の画面だった。今の時代には不釣り合いな、大きいブラウン菅のモニターが光っている。他に何もないせいか、やけにモニターが大きく感じた。
 誠司は説明を一時止め、そこに向けて歩いていく。途中振り替えると、棗は不思議そうな顔をして後を追ってくる。そんな棗の姿はどこか小さい子供を連想させた。
 (これ、実はパソコンなんだよ)
 『ぱそこんって、きーぼーど、とか、まうす、とかが付いてるものじゃないの?』
 棗が尋ねてくる。誠司は苦笑し、先ほどから不思議そうにしていた理由はこれか、とどこか納得する。
 棗は誠司と触れる━━━━自分を認識してくれる人間といる場合は自我を保っていられるが、離れてしまうとそうもいかない。自我の崩壊の前兆、自我の無意識的保護状態とも言うべき『虚ろい』と呼ばれる状態に陥る。棗の場合、自我を保てる時間は誠司と離れてから約二十時間。誠司と、つまり霊の存在を認識する人間と接する時間が長いほど、この時間は増えていくのだ。出会ったばかりのころの棗は十分と持たなかった。
 棗自身、自我が戻ってから五年。誠司に憑いて様々なところを周り、現代の知識を身に付けてきたが、それも五年だ。
 最近はそうでもなくなったが、初めの頃は棗が自由に行動することはできなかったのだ。彼女の現代の知識が少ないのは仕方の無いことだった。
 (これは手で画面を直接触るすることで操作できるんだよ)
 『へぇ……何か面白そうだけど、この、ぱそこん、でどうするの?』
 棗が興味深々に顔を覗かせている。それを横目に、誠司はポケットから一枚の紙切れを取り出した。そこには昨日、病院に誠司の妹を見舞った時に頼まれた本の題名がメモしてあった。
 (このパソコンは検索用で、この図書館に蔵される書籍を管理してるメインコンピューターと通信して、書籍の場所や貸し出し状況を表示してくれるんだよ)
 『なるほど……。どおりで、これだけの中から、自分で自分の目的の本を探すことができるんだね……』
 それだけの簡単な説明だったが、棗はどうやら納得したようだった。しかし、これだけの数の本を目の前にしてか、どこか落ち着かない感じが見て取れる。
 (そうだな……)
 携帯を取り出し、時刻を確認する━━━━四時三十分。
 (四時五十分頃まで、自由に見てきても良いよ?俺も二十分で目的の本、探すから)
 『えっ、いいの?』
 びっくりしたのだろう、棗は目を見開いて誠司を正面から見つめた。少し声が裏返っていた。
 (ああ。貸し出しカウンターの上辺りに大きい壁掛け時計があるから、その時計が十を指したら入り口でどうだ?)
 『ありがとう、誠司君……!!』
 顔に満面の笑みを浮かべ、感謝の言葉を述べると、まるで飛ぶように━━━━いや、床に足を付けず、飛んでいった。本棚をすり抜け、すぐに視界から消えてしまった。
 (……久しぶりだな、棗の嬉しそうな姿を見るのは……)
 自然に笑みがこぼれてくる。
 (あれが自然な姿だ……そうだろ?)
 自らに問いかける。意識は左眼へ。
 棗が視界から消えた事を確認すると、ゆっくりと色の違う両眼に瞼を降ろす。
 「左眼凍結━━━━」
 左の瞼の上から右手を添える。霊力を右手より左眼へ。『術』を行使する。
 「━━━━封印」
 眼を開く。左のそこに青い瞳は無かった。普通の、黒。
 途端、誠司の視界の左半分がぶれ、左眼に形容しがたい激痛が走った。とっさに目の前のパソコンの置かれている机に右手を付き、左手を強く左眼にあてる。右手に持っていたメモがフロアに落ちるがそんなことを気にする余裕はない。体勢がぐらつき、倒れないようにと強い力を込め右手で体重を支える。
 「ぁ━━━━」
 声が漏れないように口を閉じる。額に汗が浮かぶ。左手で左半顔を圧迫し、激痛を堪える。
 (くそ……たった三十分……なのに……)
 激痛自体は数秒で収まった。しかし、さらに数秒間、左眼は焦点を結ばなかった。
 「ふむ、実にやっかいな眼だね」
 「なっ、」
 それは背中から訪れた。唐突にそこに気配が現れた。
 振り返って正面に━━━━
 ━━━━とすっ。
 「チェックメイト。気の抜きすぎ、じゃないかい?」
 誠司の左胸に当てられたそれは、柄。黒いナイフの柄が誠司の胸に突き立てられていた。
 目を見開く。
 その柄を握る先にいるのは誠司の良く知る少女であった。
 笑みを浮かべるでもなく。ただ無表情にそこに佇んでいた。
 時間が止まる感覚━━━━
 「……悪趣味ですよ」
 先に口を開いたのは誠司だった。
 「そうかい?」
 ひょいと少女が柄を引く。どんなマジックか、その柄の先にある刃は光沢を失わず、血に濡れることもなくそこにあった。
 「それは何を指しているのかな……僕が誠司君の背後から気配を消して近づいたことかな?それとも君の胸にナイフを突き立てたことかな」
 とても澄んだ声。誠司と同じか、少し下かといった外見に比べ、その物言いはとても大人びている。澄んだ空気を纏う少女だった。
 「どっちもですよ。もう一つ言うなら懲りすぎです」
 誠司は少女の手の中から未だ抜き身のナイフ、その刃を右手の人差し指と中指で挟み、ひょいと上に投げる。くるくると二回、回転して誠司の右手の中に柄から収まったナイフを左手へと。
 突き立てる。
 軽くこすれる音がして、刃は柄の中に引っ込んだ。左手に痛みはない。
 「ちょっとした遊び心、だよ。まぁ、多少凝りすぎた感はあるように思うけどね」
 小さく微笑む。普段からあまり感情を表に出さない彼女だからか、その表情の変化はとても珍しい。
 「でも……」
 少女は普段の落ち着いた調子で誠司を正面から見つめる。その瞳は真剣さを宿し、しかし必要外の感情を写さない。
 「誠司君はもう少しその魔眼の価値を認識するべきだと、僕は思うよ。狙われる身であることも忘れてはいけない。今のが僕じゃなく、その手の連中なら……まぁ、今のキミなら不意を付かれたとしてもそう簡単に殺されたりはしないだろうが、ね」
 彼女はわざとわかりにくい物言いをする。そしてそこに深い意味があることを誠司は長い付き合いから理解している。
 今の一連の出来事はあり得てもおかしくない事だ。その相手が。
 もし彼女ではなく、その手の専門の者であったなら?もし殺すつもりだったら?
 簡単には殺されないかもしれない、が結果的に殺されるかもしれない。それでなくても怪我を負う可能性は?
 「つまりは、そういう事だよ」
 誠司の思考をまるで見透かしたかのように彼女は言う。
 「気をつけろ、て事でしょ?まぁ、緋姫先輩を超える能力の術者はそうはいないだろうけど……」
 緋姫と呼ばれた少女は、しかし小さく首を横に振る。
 「僕以外の術者であっても、君の魔眼の封印の反動時であれば、それは実に容易く実行できてしまうよ。違うかい?」
 視力を失い、苦痛に呻き、周囲の注意すら緩慢になっている誠司なら。たとえそれが一時的なものであっても、致命的な欠点といわざるをえない。
 「それは……まぁ、そうかもしれないですけど」
 誠司自身、その所は理解していた。しかし改めて言われれば、その認識がどれだけ甘い物であったのかを痛感させられる。
 緋姫は一歩、二歩と誠司に近づき、その左眼をのぞき込むように相対する。
 「君の魔眼……掛けられたいくつかの封印の強さは、それぞれが必要最低限の強さだろう。それでも反動が強く出るのは、必要最低限の封印であっても、通常のそれより非常に高度な物、ということなんだろうね……」
 「……、」
 ふいに誠司は左眼に手を当てる。この眼は体質のような物で、その能力の行使について『術』を行使するような呪文や方陣といった過程はない。その眼は一般的な『術』を超える超常の能力を与え続ける物だ。しかしそれは━━━━
 「この眼を抑えるには、このくらいのリスクは承知済みですよ……」
 誠司は小さく憂いを帯びた笑みを浮かべた。
 「先輩には感謝しています。今までのことも、今のことも」
 それは良き理解者として。彼女は誠司にとって、常にその位置にあり続ける。
 「……君はずるいね。そんな顔されたら、僕がこれ以上何か言うなんてできないじゃないか」
 緋姫は悲しげな瞳を誠司に向けて、しかし薄く微笑んだ。
 「どうやら僕はなかなかにお節介焼きなのかもしれないね」
 「緋姫先輩……」
 彼女が何を考えているのか。幼い頃からの付き合いであっても、誠司は緋姫の考えていることを読みとれたことはない。彼女の、まるで第三者から見ているかのような物言いは、いつも緋姫の真意を覆い隠していた。
 ━━━━それが寂しい、と感じたこともある。
 「僕の悪い癖さ。君はもう、あのころに君ではないのに、ね」
 適わないな、と思う。緋姫は未だに自分を気にかけてくれている━━━━
 「さすがに、もう緋姫先輩と出会って五年ですよ?俺も、もちろん緋姫先輩も変わりますよ」
 もう五年も前のことだ。あらためて思い出す。あのころは制御しきれなかった魔眼に振り回されていたころか。
 「確かに君は、変わったよ。僕の下にいた君が、僕と肩を並べるどころか飛び越えていってしまったんだからね」
 緋姫はかすかに表情をほころばせる。それはおそらく、誠司にしかわからないような反応だった。
 「君という魔術師はすばらしく成長の早い人間だったからね。同じように物事をこなしても、君はいつも僕の前にいた」
 「それでも俺は緋姫先輩を追い抜くのにはそこそこ時間がかかったような気がしますよ」
 「それはそうだろう。僕だって、後から来た君に、簡単に抜かれたりすることを良しとするような人間ではなかったからね。子供心にもがんばったんだろう」
 誠司は多少、覚えがあった。彼女より頑張らなければ、と思って物事をこなしていたのは幼い誠司も一緒で、彼女が頑張る姿を目にするたびに、誠司は無理をしてでも彼女の前に出ようと躍起になっていたはずだ。
 あのころは辛い、という言葉を吐くことを嫌っていたし、彼女が平気なような顔で何事もこなすから内心、ものすごく驚いていたものだったが。
 さすがにそれをここで白状するのは憚られた。あのころの誠司の目標は今なお自分の前にあり続ける。それは実力的なものではなく、緋姫という個人全体を評価しての誠司の思いであった。
 「あのころのように競い合うことはないけれどね。それでも君は先を見ている。少し、羨ましく思うよ。そして誇らしくも、ね」
 緋姫は薄く瞳を閉じた。何を思っているのかはわからない。その姿を誠司は懐かしく思う。彼女はいつでもこうやって何かを考えては、誠司に暖かな言葉を掛けてくれる。そのひと時の安らぎが、誠司は大好きだった。
 「昔のように、ね。君が求めるなら僕も動こう。今は特に、何かたくさんのものを抱えているようだしね。」
 瞳を開く。緋姫はまっすぐに誠司を見つめた。それは鋭くなく、冷たくなく。暖かな優しい、瞳。
 「僕はいつでも君の助けになりたいと思っているよ。多少なりとも、今の君の表情は辛そうだからね」
 「まいったな……表情だけでも普通でいないと、と思ってたのに」
 「君にポーカーフェイスは似合わないよ、誠司君」
 誠司も、そして緋姫も。表情を崩した。そこにあるのは自然な笑顔。
 「さて、誠司君の相手もこれくらいにして、僕も仕事に戻るかな」
 呼吸をするような自然な動作で、緋姫は体をくるりと反転させる。
 「仕事?」
 「ああ。もともと君に会ったのは偶然でね、少し調べ物があったんだよ」
 ひょいっと、緋姫の細い指が誠司の横にあった検索用パソコンの画面に向かって延びた。彼女の指が触れるたびに、画面は必要な情報を抜粋し、表示していく。
 「調べ物……仕事ってことは」
 「うん。誠司君の想像通り。たぶん君も近いうちに呼ばれるんじゃないかな」
 ピ、ピ、と電子音が鳴り、画面の脇に設置された小さな印刷機からレシートのようなものが吐き出される。緋姫はそれを引っ張り取り、印字された内容を一見した。
 「うん、大丈夫。じゃあ誠司君、僕はこの本を探すから」
 「ああ、じゃあまた」
 挨拶を交わし去っていく緋姫の背中を、誠司は少しの間目で追っていた。
 「まぁ、いいか。俺もさっさと本を探すとしますか」
 先ほどまで緋姫の触れていた画面に向き直り、誠司は指を走らせた。

 調べ終えた後の行動は素早く、誠司の手には既に三冊の本が抱えられていた。一冊は貸し出し中とのことで、今探している本が最後だ。
 その本が並べられている棚は、この階の棚の中では最奥に位置していた。本がほぼ隙間無く並べられたその棚を見付ける事に苦労はなかった。本の背表紙に人指し指を這わせ、目的の本を探していく。しかし……
 (ん?)
 一通り棚を見たが目的の本は見付からなかった。思わず疑問符を浮かべてしまう。
 もう一度同じように、しかし今度はさっきより丁寧に一冊一冊の題名を目で追っていく。しかし……
 (……ない。確か今探してるこの本は、貸し出しはされてなかったはずなんだけど……。棚を間違えたのか?)
 他に同じ種類の本が並べられた棚はないかと思い、辺りを見回すが、今探していた本棚はこの階の棚の中では最奥に位置する棚だ。ここより奥に棚はない。間違えてはいないようだった。
 ただ、ここより奥には本棚に代わり、一般に解放されている読書スペース(といっても、長い机と椅子が並べられただけの簡素な空間)がある。今も数人が読書をしている姿が見受けられ、人によってはそこで勉強をしている。
 もしかしたら他の本を探していた内に、誰かに貸し出されたということもあるかも知れない。または今は貸し出しの手続きを行う前で館内でその本を持っているか。しかし調べてから十分と経っていない。その可能性は薄いだろうと思う。
 (どうしたもんかな……図書館内に本はあるはずなのに……。もしかして整理員が間違えて別の棚にいれたのか?そんなことになったら見付かるわけない……)
 「あれ?御坂くん?」
 「ん?」
 思案していると、後ろから少し間延びした声をかけられた。思考を中断し振り替えると、誠司に声を掛けた張本人と思われる、片手に一冊の大きな本を抱えた少女がいた。
 「なんだ、加奈か……」
 彼女━━━━東海林加奈は、学校帰りなのか誠司と同じ学校の制服を来ていた。通っている高校は六月過ぎたころから衣替えが始まる。今では、さすがにブレザー姿の生徒はいない。今の女子の制服はスカートにベストという格好だ。
 「なんだ、は無いでしょ〜?こんな所で御坂くんと会うことなんて珍しいんだから〜」
 少し誠司より背が低い。体型もどちらかと言えば小柄な方だろう。肩より少し下ぐらいまでの長さの黒髪と、人を引き付ける魅力のある明るい笑顔が印象的な彼女は、軽く笑うと誠司の右手に積まれている本に視線を移した。
 「というか、こんなとこで何の本を借りていくのかと思えば……」
 加奈の視線が、誠司の手の上に積み上げられている本の一番上の本、その表紙に留まっていた。加奈の好奇の視線に、誠司は軽く溜め息をつく。
 「先に断わっておくけど、俺が読むために借りてくんじゃ無いからな」
 「まぁ、そうだろうとは思ったけどね〜。私の知ってる御坂くんはとりあえず、変な性癖は無かったはずだからね〜」
 「はず、ってなんだよ……」
 「じゃあ、ロリコンとか性癖持ち?」
 「冗談じゃない……」
 苦い顏をする。対して加奈はというと、悪巧みが成功したと言わんばかりに笑って見せる。絵にしたらニヤリという効果が入ることだろう。
 「私は冗談のつもりだったんだけど〜?」
 加奈は悪戯っ子のようなニヤニヤ笑いを浮かべたまま、誠司の顏を覗き込んできた。
 「で?結局の所、その本は誰のために借りていくのかなぁ?」
 覗き込む彼女の顔。誠司はそこに悪意を感じ、背筋が一瞬震えた気がした。思わず一歩分、後ろに引く。
 「……妹だよ」
 「ははぁ〜。愛美ちゃん……だっけ?妹想いの良い兄様で」
 加奈の言葉には、まだふざけが入っている。怒りを顔に出さないよう押さえ込み、外見だけ少し顏をしかめた。
 「……おい、俺はいたって真面目だぞ?」
 「ふふふ、解ってる解ってるって」
 絶対、この笑いは解ってない、と口の中でぼやく。対する彼女はひときしり笑うと、真剣な顏になって小さく一言。
 「あんまり幼女趣味とか、変な性癖に走り過ぎないようにねぇ〜」
 「だから、なんでそうなるんだ……」
 誠司が加奈を頭から殴りたい衝動に駆られたのも仕方ないことだろうが、大衆の面前で騒ぎなど起こした日には、何処へ行っても笑い者だ。
 「ていうか、そもそも何でお前がここにいるんだよ?図書館なんて一番お前に似合わなそうな場所だけどな」
 「失礼なっ!!調べ物だよ」
 持っていた本を片手で軽く振って見せる。年代物なのだろうか、表紙は日焼けと劣化で少し色が茶色になっているが、元は無機質な緑一色であったのだろう。
何処か辞書を彷彿とさせる外観だが、辞書にしては薄く、大きい。
 「何の本だ?百科事典か何かか?」
 「はっずれ〜、地図だよ。この地域一帯の。古いやつだけどね。」
 加奈が腕の上に安定させ、表紙を捲って見せる。確かに地域一帯を複数のページに渡って描いた地図らしいが……
 「……一体、いつの時代の地図だよ?コンビニや店の一つさえ描かれてないし、ぱっと見ただけじゃ、地形図にしか見えないぞ?書いてある字は読めないし、しかもこれ、墨で描いてあるんだろ?」
 知識のない誠司に読み取れることは、何か道らしき物が描かれているという事くらいだ。
 「だからぁ〜、古い地図だって言ったんだよ。今の地図じゃ調べ物の役に立たないからね。……っと、」
 加奈が本を閉じようとして表紙を傾けた時、本の隙間から何枚かの紙が落ちた。
 「ん?なんだ……?」
 屈んで拾い上げる。よく見ると、先に見た地形図のような物が、それにも描いてあるが、本の中とは違い、紙自体は劣化がなく、まだ新しい物に見える。二箇所に赤の丸が付いていて、本の中のページではないことが判る。
 「あっ、それコピーだよ。本自体は古いから、閲覧はできても貸し出しは禁止なんだ。」
 「なるほど、だからコピーか」
 拾った紙を加奈に手渡してやる。こんな古い地図をコピーまでして使って、いったい何を調べたいのか。全く見当が付かない。
 「そ。まぁあらかた書籍は探し終えちゃったし、後はロードワークが少し」
 「ロードワークするようなこと調べて、何するんだよ?」
 正直、これが最大の疑問だ。課題などじゃ無い限り、自分に何の特もないことを趣味で調べるとは思いづらい。
 「ひみつ。そのうちわかるよ」
 はぐらかされてしまった。しかし無理に追求することも無いだろう。ただそう考えれば良いだけだった。しかし誠司は同時に、不安に似た形容しがたいものを感じた。何か引っ掛かっていた。
 「私はもう、図書館に用はないし、行くね」
 「あ、あぁ。何調べてんのかわからないが、まぁがんばれ」
 その引っ掛かりの正体さえ掴めないまま、障りのない相槌を打つ。
 「ありがとー。また明日ね」
 にはは、と笑う。笑顔は無料というが、その言葉は加奈のためにあるんじゃないかと思うぐらい、普段から彼女は良く笑う。その中でも上物といえるだろう明るい笑顔を残し、手を振りながらカウンターの方へ行ってしまった。
 「……嵐のようなやつだな。つか調べ物が流行ってるのか?……いや、そんなことはないか。緋姫先輩のは仕事だしな」
 誠司が誰にも聞こえないように小さく呟いた。加奈に感じた引っ掛かりは一瞬の物で、今の瞬間にはいつの間にか消えていた。

 夏も近いということもあってか空はまだ暗くはないのだが、それでも時間は早くはない。予定よりも遅かった。
 (悪かった、ほんとごめん!)
 図書館横の駐輪場で誠司は自分の自転車の鍵を外し、それを引きながら駐輪場の出入り口へと向かう。
 『誠司君……自分で言った時間くらい守って欲しいな……遅れるにしても十分の遅れは……』
 隣を歩くように進む棗は、図書館を出てからというもの、終止この調子だ。誠司はひたすら謝るしかない。
 加奈と話していたせいもあるのだろうが、思ったより本を探すのに手間取った。それが仇となり、約束の時間に見事に遅刻したのだ。しかも遅刻していることに気付かず、棗(実体化)に遅刻していることを告げられたのだ。
 実体化といっても、今の霊視の能力で見えている装束姿ではなく、一般的な私服だった。霊魂も残霊もそうだが、一般に幽霊と呼ばれる物はその容姿に死んだときの姿を反映する。しかし実体化は霊力を自らの意思一つで質量に変換するものだ。少し想像を膨らませるだけで、実体化後の姿形を変えることもわけない。
 (悪かったって。本を探すのに集中しすぎたんだよ)
 『私には女の子と親し気に話しているように見えたけど……?誠司君の隣にいたんだけど……』
 魔眼を閉じている時は棗の存在を捕えられないのだから、解りようがない……と、そんな言い訳を言ったところで仕方ないだろう。なにせ事実だ。
 (まぁ、そんなこともあったような、なかったような……)
 『あった……』
 そう言う棗が軽く笑う。どこか表情と言葉が一致しない。それを見て、誠司は棗がもう許してくれていることが、なんとなくわかった。
 これは遊びだ。簡単なふざけあい。
 (……悪かったよ、次は気を付ける……な?)
 同じように棗に笑い掛けると、今の状態では決して触れることの出来ない棗の頭をを撫でるように、優しく手を左右に振った。棗は、まるで本当に撫でられているかのように、嬉しそうに目を細めた。
 誠司はそれを確認すると、自転車を当初の目的地の建つ、住宅地方面へ向けた。
 自転車を走らせてはや二十分になろうとしている。誠司は住宅街を少し抜けたところまで来ていた。ふと見上げた空は、だんだんと西の方から赤らんできていた。妙に暖かく、そして少しくすぐったい様な風が、誠司の頬を撫でた。
 この町の市街に図書館があり、そこから自転車で二十分。市街地を抜け、その先にある住宅街から少し北の高台に切り込んだ一角に、そこはあった。
 広い土地にたてられた大きな白い建物。南側には住宅地、北側には単に坂の上とも丘とも言える高台と小さな森林。大通りからは少し外れたところにあるが、直通バスが運行しているので交通の便も悪くはない。
 この地域、最大の病院だった。
 自転車置き場に乗ってきた自転車を止めて、病院内に入る。
 病院内独特の……清潔な空気の香りが鼻を突く。もう五時半を回ったというのにロビーはいまだ人が溢れていた。
 まだ、診療終了時間にはなっていない。入り口を入ってすぐの所にある受付はまだ騒がしく、運営及び事務担当と思われる職員が右往左往と歩き回っている。受付前の待合用に設置された椅子には、雑誌や新聞を広げ、順番待ちの人々で、ごたったがえしている。
 誠司はその前を通りすぎ、奥にある入院病棟連への渡り廊下へと向かう。
 『へぇ……、この施設の中には初めて来たけど……本当に静かなところ……』
 後ろを漂うように付いてくる棗は、物珍し気にせわしなく視線を漂わせている。
 (なぁ、ちょっとの間、魔眼を封印させて貰って良いか?ここって一種の霊的な溜り場みたいなものだから、なかなか精神的に辛い……)
 やはり病院、今こうして棗と話している時にも、所々に霊の残姿が見えているのだ。霊魂とは違い、それらは魂を持たない霊体━━━━残霊と呼ばれ、それは意思や自我といった精神的な構成要素を何一つ持たない。そのため生前の突発的な強い思いによって形作られたその姿は、死の直前直後といった状態を反映しているものが多い。
 魔眼は、常にそれらが霊視てしまうので、この様なところで開眼したままの状態は精神的に辛い。
 『わかった……ちょっと待ってね』
 棗は霊力を質量へと変換し、服装を変え、実体化する。
 同時に、記憶に刷り込まれる感覚。認識を改変するそれは、何度感じてもなれることのないものだった。
 「……っふう、」
 棗の服装は、先ほどまでとは、また変わっていて、ロングのクリーム色をしたワンピースだった。リボンの付いた麦わら帽子でも被せれば、完璧な夏ルックと言えるだろう。なかなか可愛らしい。
 「誠司君、どう?」
 「いや、霊力の扱いがとってもうまくなった」
 棗が何を聞いているのか分かったが、正直に答えるのもはずかしかったので、誠司はわざと論点のずれた返答をする。
 「そうじゃなくてっ、私……綺麗?」
 「お子様っぽい」
 「……誠司君、酷いよぉ」
 「冗談だよ。十分すぎるほど……」
 やはり若干、恥ずかしさが邪魔してそれ以上の言葉を、意識的に止めてしまう。
 「ねぇ、その後は?」
 「いや……ほら、魔眼抑えるから、ちょっと待って」
 「誠司君、いじわるだよ……」
 そんな棗をあえて意識しないようにして、魔眼を封印していく。
 「左眼凍結━━━━」
 左の瞼の上から右手を添え、霊力を編み、『術』を行使する。
 「━━━━封印」
 さして時間のかかる動作ではない。今まで見えていた残霊が、徐々に薄くなり、見えなくなっていった。同時に誠司の瞳も元の色彩を取り戻す。
 しかし同時にいつもと同じ痛みが……来る。鋭い、眼球の奥からうずくような、ずきずきとした、痛み。
 (……っ、)
 足元がおぼつかなくなり、側の壁に右手をつく。
 「っ!?誠司君っ!!」
 とたんに棗が顔色を変えて寄ってきた。誠司の背中に右手のひらをあてて、下から顔を覗き込もうとする。
 「どうしたのっ!?大丈夫!?」
 心配そうに棗が聞いてくる。
 「大丈夫、ちょっと立ちくらみがしただけだから」
 「でもっ……!!」
 「大丈夫っ、ほんと、大丈夫だから」
 誠司は棗に悟られないようにと笑顔を作った。多少の違和感はあっただろう。痛々しく見えたかも知れない。
 (大丈夫、だろ……)
 心配は掛けたくなかった。今までも隠してきた。それは━━━━
 (魔眼の封印に……痛みを伴うことを棗が知れば……)
 魔眼のお陰で棗とのコミュニケーションが成り立っている。もし棗が真相を知ってしまったら自責の念に取り付かれてしまうだろうことが分かっていたから。
 「大丈夫、軽い目眩を起こしただけだから……」
 「……うん」
 納得をし損ねている表情を浮かべつつも、棗はそれ以上に聞いては来なかった。どこか、誠司の気持ちを悟ったのか、それでも誠司は、今、棗を苦しめなくて良かったことに安堵した。
 「棗こそ、実体化は莫大な霊力を失うんだ、無理のないところまでで、抑えろよ?」
 「うん、わかってる」
 その少女は泣きそうな顔のまま微笑んだ。

 渡り廊下には誰もいなかった。静まり還っていて、先ほどのロビーの光景が嘘のように感じられるほどだ。
 特殊入院病棟の二階。2007号室。ここには、本を誠司に預けた張本人がいる。部屋のドアを軽くノックし、無遠慮に扉を開くと、備え付けのベッドの上に、その少女は居た。誠司が先に部屋に入ると棗もそれを追うように入室し、静かに扉を閉める。
 ベッドの上の彼女は誠司が病室に入ってきたことに気が付き、読んでいた雑誌から顔をあげた。
 「あっ、兄さん、それに棗っ!!」
 とたんに少女は表情を綻ばせる。誠司は来客用に用意されている椅子を、部屋の隅から一つ持ち出し、ベットのとなりの椅子に並べ、その片方に腰かける。もう片方には棗がワンピースのスカートがめくれないように注意しながら座る。
 「こんにちは、愛美ちゃん」
 「よう、やけに嬉し元気そうな怪我人だな」
 それぞれに挨拶を交わす。誠司の挨拶は肉親であるからか、どこかあきれと皮肉を含んだようなものであったが、
 「暇で暇で仕方なかったのよ、たとえ兄さんでも少しぐらい暇潰しにはなるでしょ?」
 彼女━━━━御坂愛美はそれが馴れたものであるかのように、笑顔のまま仕返しとばかりに皮肉を含ませ言った。誠司より二つ年下の妹である彼女は中学三年。ここで入院となってしまったのは受験もあるので大変かも知れないが、愛美は学校を休めることを喜んでいたりする。
 まだあどけなさの残った顔造りにショートヘア。愛美の髪は誠司とは違い、純黒色だ。耳には小さなアクアブルーの雫の形をしたイヤリングが輝いている。
 しかし今、とくに目立っているのは釣っている右足の大きなギブスと、両手の肘から先に巻かれている白い包帯だ。
 「だ、大丈夫なの?凄く痛そう……」
 棗は心配そうに声を掛ける。
 「うん、まだ少し痛みはあるけど、そこまでじゃないよ」
 愛美は右掌を握ったり開いたりと、まるでその感覚を確かめるかのように動かして見せる。
 「それにしたって……もう動いて良いの?動けるの?」
 「とりあえずは、ね」
 愛美が入院している理由は、二日前に関わった事件による、片足の骨折。両腕の、火傷に似た外傷と神経の異状。骨折だけでも普通の診断では全治二ヶ月、である。
 「んな簡単に回復する兆候をみせてもいいのか?この病院にいる関係者の半分はわかっているから大丈夫だろうが……」
 「うん、まぁ大丈夫でしょ。さっさと回復して、あいつらに反撃しないと」
 ぐっと右拳を握り込む。が、その両腕に巻かれた包帯は痛々しかった。
 「『紫晄』に事後報告はしたんだろ?」
 「うん……」
 「なら、全快するまでは休んでろよ。あとは任せて……な」
 誠司が笑い掛けると、愛美も年相応の無邪気な笑いを浮かべた。それを見る度に━━━━
 「そうそう、昨日頼んだ本、借りてきてくれた?あれ、一冊に着き二時間は暇を潰せるのよね」
 誠司が思考の海に沈む前に、愛美の声が誠司に届いた。
 「あ、あぁ……本一冊が二時間?」
 「読むの早いねぇ〜」
 棗が感嘆の声をあげる。誠司が鞄を開け、図書館から借りてきた本を取り出すと、それを嬉しそうに受け取った。
 「ありがと、兄さん」
 「おやすい御用です、お姫様」
 わざと恭しく言って見せる。それの効果は確かにあり、棗が笑い声をあげると、誠司も愛美も笑った。病室が楽しげな空気に包まれた。
 「また読み終わったら、頼んでも良い?」
 「できれば頼むな。いろいろとめんどいし」
 即答した。別の答えを期待していたのだろうか、愛美は一瞬呆気に取られたような間の抜けた表情を浮かべ、次に上目使いに頬を膨らませた。
 「もう、なんでそう即答するかな。兄さんには優しさってのが無いの?」
 愛美の言葉に、横にいた棗が「あはは……」と愛想笑いのような乾いた声を出す。
 「誠司君、普段は優しいのにね。愛美ちゃん相手だと、どうしてこうも違うかな」
 うーん、と少し考えるそぶりを見せ、数秒、微妙な間を置く。
 「……やっぱ近い相手だと、多少対応も変わるもんだよ」
 「……そういうもの?」
 「そんなんだから兄さんは無神経とか言われるんだよ」
 女性陣からの言葉が痛い。しかし反論の余地もなく誠司としては、ここはごまかすように笑っておくことしか出来なかった。
 そんな誠司を見つつ、棗と愛美はハモるように溜め息を一つ。
 「……」
 「えっ、何か言った?」
 愛美が小さく何かを言ったのが聞こえたが、なにを呟いたのかまで誠司には分からなかった。ただ棗には聞こえたらしく、愛美の方を少し驚いた表情で振り返った。
 「いいえ、なにも。……そういえば兄さん、麻衣さんなんだけど……どうだった?」
 「い、いや、まだこれから行くつもりだけど……」
 急に話題が変えられたせいだけじゃないが、誠司が慌てた感じで答えると愛美は驚いたような顔をし、次に問い詰めるように言う。
 「えっ、なんで一番最初に行かなかったの!?」
 「いや、別に理由は……」
 誠司はその剣幕に思わず押されてしまい、たじろぐ。対する愛美はそんなことに構いもせず、早口に巻くし立てた。
 「兄さんっ!!女の子はねぇ、繊細なんだよ?ほんのちょっとしたことで不安になっちゃうんだから。大切な人なら、なおさら!!」
 「……うん、誠司君、行って来なよ。……誠司君だって、会いたいんでしょ?私は愛美ちゃんとここで待ってるから」
 愛美の言葉に棗までもが後押しをする。しかし彼女は愛美とは違い、優しく微笑んでいた。
 「……わかった、行ってくるよ。棗、愛美の相手、少しのあいだ頼むな」
 「麻衣さんによろしくね」
 「ああ」
 二人に送り出され、誠司は一人のために、そして自分のために彼女の病室へ向かった。

 誠司がここに通うようになって五日。ある意味、なれてしまったと言うべきか。
 本来の目的の場所。特殊入院病棟の三階。3012号室。そこはその名の通り、特別な措置を取る病人が入る、個人部屋だ。部屋の名札には月城麻衣(つきしろ まい)という名前。
 愛美に構っている内に六時をすぎ、夏の夕焼けが外を赤く染めていた。普段ここに来る時間より少しばかり遅い。
 一度、ドアの前で深呼吸をする。何度来ても、ある程度の緊張はある。それでも誠司はここに来ることが楽しみだった。
 ドアをノックする。すると、すぐに病室内から返事があった。
 「はい、どなたですか?」
 しばらくすると部屋の中から返答があった。間違い無く麻衣の声だ。
 「御坂です。麻衣、入って良いか?」
 「せい君?うん、入って良いよ」
 麻衣の声は優しく、誠司を中へと招きいれた。横開きの扉を開くと一陣の風が誠司の横を吹き抜けていった。
 最初に見たのは麻衣の横顔。ベッドの上で、上半身だけ起き上がらせて、窓の外を眺めている。栗色をした彼女の長い髪の毛が風になびく。
 「今日は起きてても大丈夫なのか?」
 誠司が声を掛けると麻衣は誠司の方を振り返ってくれた。外から入ってくる、薄く赤い光のカーテンのせいで、誠司から麻衣の表情をしっかりと見ることは出来なかった。変わりに、彼女の胸に架っている純銀の、三日月を象ったペンダントが揺れて、光を反射してきらびやかに輝いた。
 「今日はいつもより、体調が良いんだよ」
 麻衣は窓とカーテンを閉めて、誠司に向き直った。
 「せっかく夕焼けを見ていた所を邪魔したかな」
 「そんなことないよ」
 麻衣は微笑んだ。柔らかく微笑んだ麻衣は、どこまでも優しく、暖かい。彼女といるときだけは、人の温もりを直に感じることができる。そんな気がしていた。
 「いつもありがと」
 「なんだよ、改まって。いつものことだろ?」
 「ううん、違うの。いつものことだから余計に嬉しいんだよ」
 麻衣は屈託のない笑顔を向けた。
 「悪かったな、遅くなって」
 誠司はベッド脇に腰かけると、はにかんだように笑い掛けた。不器用だったが、彼なりの心使いとでも言うのか、麻衣には安心感に似た雰囲気が感じられた。
 「そんなことないよ。私はせい君が、こうやって側に来てくれるだけで結構嬉しいんだよ?」
 誠司は更にはにかんだような顔になった。こう、真っ直ぐに気持ちをぶつけられると照れてしまう。
 「まぁ、この程度で喜んでくれるなら」
 意識しないようにしても、どうしても麻衣の顔を見ることが出来なかった。
 「今日は棗ちゃんは一緒じゃないの?」
 「ん?ああ、先に愛美の病室に寄ってきたから、そっちにいるよ」
 「そうなんだ。今、私『術』が使えないから棗ちゃんが霊体として来ているのかどうか、分からなくて」
 優しく微笑む。麻衣は愛美同様に、棗を知る数少ない友人の一人だった。
 棗を知る人間━━━━幽霊を見るということは『霊視』という『術』によって可能となる。つまり幽霊を知る人間は総じて術者であるといえる。
 「そうか、『術』が使えない呪い……か」
 「正確には霊力を浸食する呪い。常に一定量の霊力を奪う……ヘタに『術』を使って霊力を消費すれば━━━━」
 ━━━━それは死につながる。
 霊力、とは肉体と魂との間に存在し、魂の命令を肉体に伝え、同時に魂を保護するものだ。『術』は霊力の消費によって発現し、消費した分は自然に魂が回復させる。
 例えば、バケツを想像してほしい。その中は水が入っていて、バケツの中に収まる大きさの石が一つ沈んでいる。水とは霊力を指す。同様にバケツは肉体、石は魂を指す。
 水が多すぎればバケツから溢れてしまうし、少なければ石が空気に触れてしまう。実はこの石、空気に触れると割れてしまう。だから水はいつも石を覆い隠している。
 霊力は肉体の許容量を越えることはなく、常に霊力は一定量以上を保ち、魂を保護している。
 しかし実はバケツの大きさは人によりけりで、満たされた水は石を晒してしまわない程度には使うことができる。そのため、バケツには蛇口が設けられていた。
 『術』とは一つ例を出せばコップ一杯の水を飲むことだ。蛇口からコップ一杯分の水を出して、飲む。『術』の規模によって、その水の用途の違いで、必要な水の量も変わってくる。
 『術』によって失った霊力を回復させる性質を持つ魂は、常に外部の霊素体から霊力を精製している。先ほどの例えでいうならばこの不思議な石は、常時バケツの外側の空気中の水蒸気を集めて、水に変えているのだ。
 常に一定量、霊力が回復するので、許容量を満たした後は自然に溢れ、霊素体となり発散する。循環しているのだ。
 これが『術』と霊力、そして魂、肉体の関係である。術者と呼ばれる人達は総じて、他の人々の何十倍とバケツが馬鹿でかいのだ。霊体━━━━棗のような存在は、肉体という許容量を持たないためその霊力は増え続ける。
 「徐々に霊力が減ってきているのが分かる……魂と肉体との接続が不安定になってきてるのが分かる……」
 麻衣に掛けられた呪いはバケツの底面に穴をあけてしまうものだった。魂の霊力回復が追いつかず、徐々に追いつめられていく。
 「怖いんだよ。日々、体の反応が遅くなっていく……」
 麻衣は顔を伏せる。術者は怪我にろ病気にしろ自ら、あるいは他者の『術』によってその治療を行う事が多々である。愛美の治療も、病院勤めの治療術専門の術者が行ったものだ。
 「この呪いは、治療専門の術者でさえ治せない」
 それは死という絶望━━━━。
 「でも手詰まりじゃない。『紫晄』も動いてる。亜子も、緋姫先輩も……俺も」
 麻衣は伏せた顔を上げる。そこには望んでいたもの。
 「大丈夫、必ずなんとかなる。なんとかしてみせる」
 それはまるで自分に言い聞かせるように━━━━
 「今は……今ぐらいは休んでいいんだから」
 麻衣はその優しさの込められた言葉に、微かな痛みを感じた。なぜだか分からない。分からないからこその不安。押しつぶされないように、誠司の胸元にしがみついた。その確かな感触は暖かさに満ち、不安な気持ちを払拭してくれた。
 「うん……大丈夫、だから……」
 誠司は瞬間、驚いたがそれを見ると、その驚きも、そこにあった羞恥心も吹き飛んだ。そこには小さな肩が震えていた。必死に自身を落ち着けようと言い聞かせ、誠司のワイシャツを掴んだ手は強く握りしめられていた。
 「っ……、」
 誠司は言葉を失った。伝えたいことはあった。何か言わなければならない事も分かった。しかし、言えなかった。
 それは麻衣の身に起こったことで。誠司が言う言葉はちゃんとは伝わらない。慰め、同情と同じように伝わっては意味がない。時にはそれも必要だろうが……
 (なにより麻衣自身は慰めや同情なんか望んじゃいない……)
 弱音は吐いた。しかし恐怖を押さえ込もうと、それに潰されないようにと、拳を握り締め、しかしそれでも泣かない。こんな時であっても強くあろうとする。そこにあるのは━━━━。
 「うんっ、もう、だいじょぶ!!」
 誠司から身を離す。そこに震えはなく、涙もなく。
 「私は負けないから。誠くん達だけに任せたりなんか、しないから」
 誠司に最高の笑顔を向けた。
 そこにあるのは━━━━戦う、意志。
 (やっぱり……)
 常に強くあろうとする。強固な精神力で弱さに上塗りした強さ。
 (強い━━━━)
 決して他の人に見せないその強さの下にある弱さを、誠司に見せることで強くあれるのなら。
 正直、嬉しく思う。しかし常に彼女の場所でありたいと願う反面、もっと周りを頼って欲しいと思う。それがたとえ、自分でなくても。

 もう完全に日が沈んだ時刻。面会の時間も終了し、誠司は扉を開けて病室を出る。麻衣とは何を話したわけでもなく、たわいもない会話に花を咲かせた。時間が過ぎるのも気付かず、訪れた看護婦に退室を促され、最後に麻衣にまた明日来ると挨拶を告げて後ろ手に扉を閉めた。
 蛍光灯の反射する廊下。既に皆が帰った後なのか、人気が無く静かだ。誠司はそのまま扉に背中を預け、瞳を閉じて━━━━開ける。
 そこには、誠司に対するように、一人の男が立っていた。唐突に沸いたように現れたことに驚きはしなかった。彼のことを誠司は知っていたし、少し前から扉の近くにいたことも分かっていた。
 「盗み聞き……か。あまり趣味が良いとはいえないよな?広輝さん」
 広輝と呼ばれた男は、無表情を崩さない。身長は誠司よりやや高め。年齢は二十歳ほどに見える。白衣を着ていることから、一般の人には若い先生と映るだろう。
 「言っておくが、盗み聞きしたくて、ここにいたわけじゃない。『紫晄』としては彼女という人材を失いたくはない。これは第一、第二、双方のセクターの総意だ」
 「わかってる……。だからこそ広輝さんのお陰で安心できる部分もある。ホント、感謝してるよ」
 ふと誠司の眼光が鋭くなる。広輝はそれでも表情を崩すことはなく誠司のことを見据え、静かに口を開いた。
 「……なんだ、それ以上に何かあるのか?」
 「……一つ。広輝さんが第一の指示で動いてるのは知ってるけど……必要以上に麻衣に近付くな。今のあいつをこれ以上に束縛するな」
 「彼女が病院にいる以上、これも俺の仕事だが……しかし、覚えてはおこう。彼女に必要以上に接したりはしないさ。第一の意向は監視ではなく静観だ」
 広輝の返答は誠司にとって、今は十分なものだった。誠司は扉から背を離すと、広輝に背を向けた。
 「……まかせたよ。伊藤広輝先生。医者として信用するよ」
 「言ってくれる」
 広輝の声は小さかったが誠司に届いていた。誠司は少し歩き、
 「しかし……」
 振り返る。
 「誠司、彼女を助けるならば二つに一つだ。最良の結果を導きたいのならば、やはり第二……いや、お前がなんとかするしかない」
 広輝は白衣のポケットから小さな紙片を取り出し、誠司に向け親指で弾いた。綺麗に滑空してきたそれを右手でキャッチする。
 「これは……?」
 「新しい情報だ。詳細は支部に行って、直接聞くといい」
 広輝はそれだけ言うと、他に言うことなど無いとでも言うように、無造作に右手を振って見せた。
 誠司はその二つ折りにされた紙片を開き、中に書かれていた文字を確認する。
 「……情報部が見付けたのか」
 一通り目を通し、再び紙片を折り畳む。そして再び視線を前に投げたが、既にその場所に広輝の姿はなかった。


 男は部屋を大雑把に片付けると、その部屋を足早に出た。長い時間、密室状態だったためか室外の空気が清々しい。こんなに問題を抱えているというのに。
 着ている白衣の襟元を片手で触る。乱れているわけじゃない。考え事をするときの癖のようなものだろうか。
 先ほどまで自分の前で泣いていた女性は、すでに泣き止み、部屋を立ち去っている。家に帰る前に娘に会っていくことを進めたが、恐らく彼女はそのまま家に帰ったことだろう。
 (アイツは自分のことを良く知っている。あんな話を聞いたあとじゃ、表情をコントロールすることなんて無理だ。そんな状態では患者に不安を与えるだけだ……)
 男にはそのことも解っていた。しかし、彼女に会うことを進めたのは、このままでは時間が少ないことを知っているからだった。
 (いや……)
 方法はある。そこには二つの救う道が存在している。しかし、男が独力で行うには一つ。それは自分の罪を無関係な人間に背負わせてしまうこと。その後の人生を左右することだ。しかし、もう一つの方法。それが更に困難であることも、また残酷な事実だ。
 ━━━━αブラディメント。
 重い名前だ、と思う。唯一無二の万能薬であり、幻の秘薬。但し、危険度や、それにより完治した者のその後を考えると、悪夢の薬でもある。
 既に適性検査は終わっている。患者は五十人に一人の適性者だった。
 (こんな偶然が……。しかし、事実だ)
 痛いほど残酷な事実がそこにはある。αブラディメントという薬は、使う者に枷をつける。
 廊下を歩いていると、制服を着た青年がこちらに向かって歩いてくるのに気付いた。
 青年もこちらに気付き、顔をしかめる。
 しかし双方共に歩みを止めず、近付き、正面に相対した。やはり、双方共に歩みを止め、しかし互いに喋らない。
 身長はさして変わらない。片や制服の少年の名は御坂誠司。片や白衣の男の名は御坂啓介。
 親子という関係ではあった。しかし親子というにはあまりにも、二人は言葉を交さなかった。
「……相変わらずだな、誠司」
 先に口を開いたのは啓介だった。特に感情の篭っていない、逆にいえば、何を考えてるのか判らない、そんな声で。
 「……」
 誠司は何も答えない。啓介の目を真正面から見据えた。しかし、そんな息子の姿にも、驚くことはなく啓介はふっと、鼻で笑う。
 「……何か聞きたいことがあるんだろう?」
 「……」
 「でなきゃ、いつもみたいに俺を避けているはずだ。今のお前は必要のない事をするような男じゃあない。必要な事があったからこそ、俺の前に立つんだろう?」
 静かに笑う。微笑みというには不器用で含みのある笑い。
 「……すべてお見通しとでも?」
 「そこまでは言わないが、な。言ってみろ。答えられる質問なら答えてやろう」
 啓介の言葉に、誠司の目が細まる。言葉の真意を見定めようとしているのだろう。
 啓介は決して表情を崩さない。誠司はその時、確信めいた思いがあった。
 「……麻衣の呪いのことだ……。着実に進行しているのが一目でわかる。精神的にも不安定だ」
 「それについては俺はなにも言えん。魔眼で見れば分かるだろう?彼女に掛けたのは俺の知る中で最高の中和封印術だ」
 啓介は答える。医療系の繊細な術式を必要とする霊術を使いこなす啓介にも、麻衣の呪いの解呪は出来なかった。仕方なく、一時しのぎの中和封印術を掛けたが、それでも中和はしきれず、彼女の体は徐々に呪いの影響を受けている。
 「あの呪いは魔神法具による物だ。呪いを解くならば、彼女に呪いを掛けたそれ自体を手にいれる、あるいは破壊するかしか方法はない」
 それがもう一つの方法。誠司は苦々しい表情を浮かべる。それは分かっていたことではあった。そして、それがとても困難であることも良く分かっていた。
 「……このままだとあと一ヶ月と持つまい」
 啓介は抑揚を付けずに言う。それが当たり前であるかのように表情も変えない。なによりそれが、啓介の言ったことの全てが事実であることを物語っていた。
 「親父……他に方法は……ないのか?」
 「もう一つ、助ける方法は……ある。……最悪の劇薬がな」
 「っ!?」
 誠司の顔色が変わった。それが何を指すのかを知っていたから。だから誠司は激昂した。
 「ふざけんなっ!!あれは人の人生を奪い取る毒だっ!!」
 周囲にいた人々が振り返るが、気になどしない。しかし、そんな誠司に対しても、啓介は動かなかった。
 「だが救われる。彼女なら命を取り止めることは……できる」
 事実……現実……。そんな言葉が嫌になる。最良の薬と最悪の毒は紙一重だ。
 「絶対に……使わせない。あんな物を使わせるぐらいならっ……!!」
 「……彼女が死ぬのを待つか?」
 「そんなことは……しないっ!!必ず神魔法具を手に入れる、破壊してみせるっ!!」
 誠司は言い放つ。それに対して啓介は一瞬だけ微かに、しかし確かにその表情を崩した。そこにどんな感情があったのかは分からない。しかし今、啓介は誠司を認めた。
 「……やってみせろ、俺に結果を示して見せろ、誠司」
 「見てろよ、クソ親父。必ずあんたと違う結論で麻衣を救って見せる」
 それ以上話すこともなかった。今出来ることをする以外にはないことは、双方共に同じであった。擦れ違い、そして振り返ることもなかった。


 「おかえり、誠司君。随分ゆっくりだったね」
 棗を迎えに、愛美の病室へ戻ると開口一番にそんなことを言われた。
 「まぁ、いろいろな」
 「で、麻衣さんの様子はどんな感じなの?」
 愛美も興味ありげに聞いてくる。
 「……正直、あんまり良い状態とは言えない。一刻も早く呪いを解呪しないと」
 「そんな……!!」
 「それにお前の一昨日の話もある。この数日間、色々起こりすぎてる。まず状況を把握しないことには動きようもない……」
 強く、唇を噛み締める。
 「まず中央支部の方に行ってみる。麻衣に呪いを掛けた奴の新しい情報があったらしい……棗、」
 誠司は棗に合図をする。棗はその意味を悟ったらしく、一回頷き、静かに立ち上がる。
 「うん、じゃあ愛美ちゃん、また今度ね」
 棗が挨拶をすると、愛美もそれに返した。誠司が扉を出ようとしたところで、あっ、と愛美が呼び止める。
 「兄さん、あの……一緒に行っても良い?」
 表情は変えず誠司は振り返った。愛美は逆にそれに慌てたように取り繕う。
 「あっ、その……私は迷惑も掛けないし、そんなお世話をしてもらうほどの怪我人でもないし……」
 「そういう問題じゃないだろ?……怪我人らしく、おとなしくしてろって」
 「……私の足はもう治ってるよ。今はもう病院にいる必要はないんだから」
 簡単な怪我なら術で治すことができる。比較的難しい術ではあるが、組織の息のかかった病院だ、それなりの術師の一人や二人はいる。特に誠司、愛美の父親である啓介などは最たるものだ。
 「昨日まで体を起こせすらしなかったお前がなに言ってるんだか。それに……」
 誠司は体の向きを変え、ベッドに近付くと愛美の手首を少し強めに握り、持ち上げる。
 「っ!!」
 「この腕は治ってない。無茶をした結果だろうが」
 術では治らない傷。それが刻まれた腕は今、包帯の下にある。この傷ばかりは自然治癒させるしかないのだ。
 一昨日━━━━愛美に与えられたその仕事は『連行』。
 術者組織から術者へと与えられる仕事は、そのほとんどがオカルトがらみの事件事故の処理である。
 不信な二人組みの目撃、それが術者であることがわかったのは組織の管轄の結界に反応があったためであった。
 所属不明の二人組の術者を、組織へと連行すること━━━━他の組織の管轄に術者が訪れた場合、先んじて申請が必要なのだ。それは術者犯罪を防ぎ、管轄の組織、またその術者との衝突を防ぐ目的がある。
 その術者の申請はなく、調べたところ所属すら不明。フリーの術者の場合もあるのでなんともいえないが、しかし組織はその二人を不信人物として連行を命じた。
 接触後、その説得は失敗に終わり、やむ終えないその二人組との戦闘において、二人組は強く、追い詰められた愛美は本来無理な量の霊力を行使した。
 腕の傷はその使用に肉体が耐えられなかった結果だ。肉体の許容量を強引に広げ己の霊力を使用したために、肉体は反動とその霊力によって焼かれた。結果その両腕は霊力に対する抵抗値がゼロの状態になり、術による治療、及び術の行使が不可能になった。
 誠司は再びドア向かい、そこに手をかけて振り返らずに言う。
 「今は自分を大切にしろよ。休めるときは任せていいんだから、な」
 愛美からの答えは聞かず、扉を開けて病室を出る。後ろ手に扉を閉め、一度深呼吸をする。
 「……ありがとう、兄さん」
 小さな扉越しの声が少し心地良かった。


〜 to be continued 〜









back    top    next