桜 〜舞い踊る下の物語〜
桜の花が散るのは早い。早咲きの、この桜なら特に……だけど。 春が過ぎ、季節は夏に向かう。 花が散って、また緑の葉を茂らせる。 今はその葉にも水が滴っていることだろう。 「今頃は、あの桜も雨に濡れているんでしょうね。写真を撮れないのが残念です」 窓の外を見つめたまま、花梨は言った。 「まぁ、今の時期はね。仕方ないよ」 僕は彼女の向かい側に座り、同じように窓の外に視線を走らせた。 ぽつん、と上から下へ。屋根からだろう、雫が一滴、また一滴と、大きめのプランターに植えられたアジサイの葉を弾いている。 綺麗な薄紫の花を咲かせたアジサイが唯一、この雨の中、灰色の空の下で色を持っているような錯覚に陥る。 雨期に入り、最近は雨の日が多くなった。花梨と僕は桜の下で、ではなく、この喫茶店での待ち合わせが増えた。 「このアジサイの花も、少し桜に似ていると思いませんか?」 「うん?」 不意に掛けられた問いに、僕は彼女を振り返った。 花梨はそんな僕にも気が付かず、ただどこか寂しそうな……いや、悲しそうな……?なんというか、触ったら壊れてしまいそうな儚さを感じる表情で、窓の外のアジサイを見つめていた。 「桜もそうですけどアジサイの花も短命じゃないですか。雨期のこの時期に精一杯、綺麗な花を咲かせて、そして夏の訪れの前にその花は落ちてしまう……」 どう答えて良いのか、僕には分からなかった。彼女の言ったその通りだと思う。思うけれど…… どうしてそんなにも悲しそうな表情で言ったのだろうか?少し考えれば彼女が言った事と同じように思えるのに、僕自身、どうしてかすぐに『そうだね』とは答えられなかった。 数秒の沈黙。絶えずアジサイを叩く雨の音だけが、そこにあった。 「短命……ね。私はそうは思わないんだけどな」 「え?」 その沈黙を破るように後ろから聞こえた第三の声に、花梨も、そして僕も思わず振り返った。 湯気立つマグカップが二つ乗った盆を片手に、マスターさんがそこに来ていた。 「はいこれ。注文のコーヒーとカフェラテね」 手慣れた動作で、僕と花梨の前に皿にスプーンにマグカップ、ティーセットを作り上げていく。暖かさを象徴するような湯気が立ちのぼり、それに乗るように香りがテーブルの上を満たした。 「ではマスターさん、あなたはアジサイの花をどの様に考えているんですか?」 先ほどのマスターの発言に対しての問いだろう。僕も少し興味があった。そこに少しの期待もあった。マスターはどう考えているのか。僕がすぐに頷くことの出来なかったその理由も、マスターの次の言葉から分かるんだろうか。 マスターはお盆から全てを降ろし終えると、テーブルの奥にある窓から見えるアジサイの花に目を向けた。 「そうだね……アジサイの花にしても桜の花にしても、似ているとは思うよ。けれど、短命であるとは私は思わない。確かに短い時間しか咲かない花だけどね」 「でも花が落ちてしまえば、それは同じ事じゃないですか?」 花梨が聞く。花こそが魅力である、その植物は花が落ちても生きていると言えるのか? 多くの人は言える……と答えるだろう。でも、花が落ちた植物に、人は枯れた……という言葉を使う。 枯れた……という言葉は、その植物が死んでいるとどこかで考えているから、出てくる言葉なんじゃないのか。 「桜にしてもアジサイにしてもね、花が落ちても生き続けていると思うんだ。それに気が付き難いだけでね。たとえ花が落ちても、次の花咲く季節を夢見て、頑張って生きている。そして一年後には同じ場所で同じように花を咲かせるんだ。私は一番輝く時だけが『生きていると言える時間』ではないと思うんだ」 そう言って、マスターは小さく笑った。 「誰も見向きもしなくても、そこに生き続けている……ですか」 確かにその通りだ。桜にしてもアジサイにしても、必ずそこに息づいている。そのことには気が付かないことが多いけれど、でも次の年にまた花開く為に生きている。 「ただ花咲く一瞬のためだけに生き続けて、一度咲けば、その後一年間をまた次を夢見て生き続けて……」 花梨はただ呟くように、窓の外を眺め続けていた。 「そう、繰り返している。そして生き続けている。桜もアジサイも……こう考えるとすごいと思わないかい?」 「え?」 花梨の少し驚いたような問いかけに、マスターは微笑みを浮かべた。 「咲ける時が一瞬だとしたって、その一瞬を精一杯に楽しんで。次があることを信じ続けて、精一杯に生き続ける。……こうやって擬人化しているけれど、実際に彼らは私達よりずっと一生懸命で、たから花咲く一瞬がより強く輝くんじゃないかな?」 マスターはそう言って言葉を締めくくった。 マスターが言ったことは、それはマスターの考えであって、もちろん違うように考える人だっているだろう。 それでも。 マスターの考え方はどこか素敵で。 「ありがとうございます、マスターさん」 そう言って花梨は笑った。 「いやいや、私は私の考えをただ、口にしただけだよ」 「それでも……えと、とっても参考になりました」 とっさに言葉が出てこなかったのか、花梨の言い回しにマスターも軽く笑った。 「そうかい。それは良かった」 そしてそれは、花梨にも何か影響を与えたらしい。表情から、どこか暗さが消えていた。 僕は窓の外を見やった。 いつの間にか――――雨が、上がりかけていた。 そう。どうしてこの頃に僕は気付く事ができなかったんだろうか。 時間は止まらない。咲いていた花もいつしか枯れてしまう。 花と同じ。咲いている瞬間は最大限に輝いて。 でもそれは――――永遠じゃなかったんだ。 |