桜 〜舞い踊る下の物語〜
がらんがらん、といつもと変わらない鈍いベル音が響く。 昔から、その喫茶店のドアの上に掛かったベルの音は変わっていない。 高校受験の頃から勉強なり一息休憩なりに使わせてもらっている喫茶店というのもあるんだろうが、この音はいろいろと懐かしさを感じさせる。 「いらっしゃいませ。っと、直哉くんか」 「こんにちは、マスターさん」 その建物の影に隠れた小さな喫茶店の主は、いつもの調子で僕を出迎えてくれた。 大柄で口髭をはやしているせいか、常連さんの間ではこのマスターも熊親父と呼ばれている。しかし外見とは対照的に、いたって温厚で優しい人だ。 「今日は、また勉強かい?」 「いや、ちょっとした時間潰しですよ」 「そうか、それは残念だ。それじゃ、コーヒーだけでいいかい?」 「うん、お願いします」 僕はカウンターテーブルに腰掛けて、マスターさんにコーヒーだけを頼んだ。 マスターさんは慣れた手際で、カップにガラスポットからコーヒーを注いで、皿に砂糖とミルクを添えて出してくれた。 湯気の立つそれをカウンター越しに受け取り、まずはそのままに一口、口を付ける。 多少、苦味のある、それでいて口に残らない味。 入り口のベルとマスターさんの出してくれるコーヒーの味は、僕がここに来るようになった頃から変わってはいない。 「やっぱり、そのままのブラックだと、僕には少し苦いかな。でもそれでいて後味に苦味が残らないのも、いつも通り」 僕がそういえば、マスターさんはまたいつも通りに口髭を揺らして、笑って答える。 「常連さんの直哉くんからそう言われるのは最高のほめ言葉さ。腕がまだ落ちていない証拠だからね」 まぁ、確かに常連ではある。 ひょいと店内を眺める。元々小さいお店ではあるが、それでも客も僕の他に三人ほど。名前までは知らないが、何度か見たことのある顔だ。 入り口も見つけにくいので、新規のお客さんを見ることはあまりないように思う。 ━━━━ここも、思い出のある場所だな…… 近くの窓を見れば今でこそ外は晴れているが、思い出の中にある同じ窓は必ず雨に濡れているのだ。 過去、ここを訪れた時、もちろん晴れている日もあったはずだ。それでも、この店のイメージは雨なのだ。 なんでだろうな……いや、分かりきっていることか。 彼女と。花梨とここを訪れたのが、雨の日だったから。 桜の下での待ち合わせが日常になったころに、雨の日の待ち合わせにと、あの頃はなけなしの勇気を振り絞って彼女をここに誘ったんだ。 桜の下での待ち合わせは、いつの間にか出来上がっていたもので、だからいつ壊れても仕方がなかった。ここで会おうと約束をするわけじゃなく、ただ彼女は桜を写真に収めるために来て、僕はバイトまでの待ち時間に……最初はそのつもりで来ていて。 いつしか僕の中のそれが、彼女に会うための時間として、ちゃんと区切られて。いつ彼女が来なくなるのか分からない、その状況が怖いと感じるようになって。 僕はそれが『約束』になることを願って、勇気を振り絞ったんだ。 雨が降った時は、ここを待ち合わせ場所にしないか?って。 今まで使わなかった……いや使えなかった『待ち合わせ』という言葉を口にして。花梨との約束を、僕は作りたかったんだ。 そう、この喫茶店は僕のお気に入りの場所。そして━━━━ ━━━━彼女との、もう一つの約束の場所。 マスターに出してもらったコーヒーをまた一口、口に含む。昇る湯気が視界を淡く遮って、僕は瞼を閉じた。 「お前さ、最近、女できた?」 学校でそんなことを唐突に訪ねてきたのは、昔からの腐れ縁の友人だった。 「な、なんだよ、唐突に。」 学校は終わり、夕方まで行かないまでも、だんだんと日が傾き始めた頃だ。いつもの花梨との待ち合わせ時間まで、さほどの時間的余裕はない。 「あれ、違ったか?この間……えっと、雨が降ってたから、水曜日かな?」 水曜日……と僕は記憶を振り返る。 たしかあの日は……花梨と出会ってから初めてになる雨の日で、彼女は来ないだろうと思いつつも、会えることを少しでも期待して、傘をさして公園に行った日だ。 「お前、あの日は結構可愛い子と一緒に、傘さして歩いてなかったか?」 「あ〜……」 その雨の日の公園、しかし彼女はそこにいた。僕を待っていてくれた……と思ってしまうのは自惚れだと思うけれど、そのとき彼女は、そこを訪れた僕に「いつもより少し、遅かったですね」と言って、笑い掛けてくれた。 「この学校じゃ見ない子だし……お前、どこで引っ掛けたの?」 このあたり、口が悪いのも昔からだ。 「引っ掛けただなんて人聞き悪いな。そもそも花梨とはそんなんじゃ……」 そう、恋人関係とか、そんなんじゃない。ただ、今は一つ一つの言葉を交わすのが楽しくて。 「あの子、花梨ちゃん、って言うのか。その花梨ちゃんと、恋人関係じゃない、ってのか?」 「というか、まだ出会ってから少ししか時間経ってないよ」 事実、出会ってから少しの時間しか経っていない。出会ってからは、ほぼ毎日のように会うが、それも一時間ほどだ。決して、長い付き合いであるとは言えない。 「ふ〜ん……その割には、両方ともが楽しそうに笑って会話してたからさ。端から見たら、恋人同士にも見えるってもんだぜ?少なくとも、そこいらの男女の友達組よりは親しげに見えたんだけどな」 本当に花梨といる時間はとても会話が楽しくて。一時間ほどの時間がとても短く感じて。 「なぁ直哉。お前は花梨ちゃんと恋人関係じゃないってのは理解したけど、実際、気持ちとしてはどうなんだよ?」 「どうって、何が?」 「だからその花梨ちゃんとの関係。直哉はどう思ってるの?ただの友達関係?」 そんなことを考えたことはほとんど無かったと思う。 花梨と会ったのは最近で、でも毎日のように会うようになって。たくさんの話がしたいと思う。彼女の事をもっと知りたいと感じる。 「友達の定義は人それぞれだし、僕は彼女を友達だと思ってるよ」 違う……と自分で言葉に重ねて思う。 こいつが聞きたいことはこんな模範解答的な答えじゃないだろう。なにより、僕自身がどこかズレたことを言っていると思える。 彼女を友達だと思ってる……か。なんてズルい逃げ道なんだろう。 僕は…… 「……まぁ、直哉がどう思っていても、俺から一つ言えば、友達の定義が人それぞれっていうなら、恋人の定義……少なくとも好きとか愛してるとかって感情も人それぞれの定義だと思うけどな。ドラマじゃ無いけど、そこに出会ってからの時間とかってのは、置いといても良いんじゃないか?」 彼は僕にそんなことを言う。まるで見透かしたかのように。 「好きなら好き。別にそれが一目惚れであったって、良いんじゃないか?というか、俺から言わせれば恋愛うんぬんの初めは大抵どいつも一目惚れだと思うんだけどな。付き合った時間なんてのはその想いを強めたり、確認したりする為の工程ってだけでさ」 そう言って彼は、昔から変わらないその表情で屈託なく笑って見せた。 「って、だから花梨のことを好きとかそんなんじゃないって!!」 話の内容は良いことを言ってると思うけど、このまま頷いたら、流れ的に僕が花梨を好きだと宣言してるみたいじゃないか!! 「はっはっは、照れるな照れるな。やっと直哉にも春がきたって事だ」 「だからっ、そんなんじゃ……」 暖かな時間は徐々にすぎていく。それを知覚するのはとても難しくて、知覚したときにはあっさりと過ぎ去った後だったり。 気が付くのが遅い……いや、気が付いたところで僕に何が出来た訳じゃないけど、それでも僕は悔いることになる。 いったいどうすれば良かったのか今考えても答えは出ないけれど。 それでも、僕はもう少し早く……。 |