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桜 〜舞い踊る下の物語〜


 空は澄み渡っていた。
 青く、蒼く、碧く━━━━。
 とても良く晴れた日だ。久しぶりに外に出たかのような感慨に襲われる。
 土手に腰掛けて、空を見上げてみればそこには暖かな太陽……生まれたばかりの暖かな光に僕は包まれていた。
 少し顔を上げる。
 そこに走る川は穏やかに。挟んだ反対側の街並みも、小さな住宅の中から所々に多少は背のある建物が頭一つ飛び出している……どこにでもある、灰色のまばらな景色。
 それは懐かしみか。
 思わず、見とれた。
 妙な……そう、感傷的になったせいだろうか。反対の土手に見えた、未だ草も花も生えそろっていない地面が、どこか寂しく、悲しい色に色づいているかのように見えた。
 ━━━━そうだな……、確かこんな日だったはずだ。
 ふと思い出す過去の景色。どこか重なるんだ。
 それを忘れることは無いだろう。
 ふわり、と風が優しく流れる。ゆっくりと瞼を閉じた。
 ━━━━そう、忘れる事なんて……ない。
 それは胸の奥の隅に押し込んだ、夢。
 無理矢理に圧迫されたそれに一度、触れると一気に膨らんで。
 少し、思い出す。心が、揺れる。
 君と出会ったあの日……。その思い出のほとりに、君は佇んでいた。
 そう。ただほほえんでくれていたんだ。
 また、ふわり、と風が頬を撫でた。
 意識が現実に引き戻る。
 空は変わらずに晴れ渡り、日差しは暖かかった。そんなに長い時間、寝ていたわけでもないらしい。
 ━━━━すこし、歩こうか。
 暖かな風が正面から吹き抜ける。春の香り……そう、これは春の香りだ。
 ……少しあの日々を思い出していたせいか。
 歩きだした足は、土手を離れた体を自然と思い出の、大きな桜の木の元へ誘った。
 小さな公園の中心に立つ、大きな桜の木。公園には数人の子供がいて、この桜はそれを見守るように花びらを広げている。
 ━━━━あの頃……か。
 この桜の木の下で待ち合わせだったんだ。
 少し遅れてきて、周囲を見回してた君の名を、僕は……呼んだんだ。
 木にそっと手をふれる。見上げればそこには綺麗な桜の花が風に吹かれていて。
 少しだけ視界を下げると、そこにはもう……
 たくさんの桃色の花びらが舞い落ちていた。
 ━━━━この春は、もう君の
元に届いたのかな……
 つうーっと空を振り仰いだ。そこに彼女がいるような気がしたんだ。
 もう会うことの出来ない、彼女が。
 それも一つの失恋か。
 彼女と過ごした時間は長くはなかった。
 それでも彼女に惹かれ……。
 その桜の木に手をあてる。
 幹はごつごつしていた。しかし、暖かかった。それは幹の温度か、太陽の温度か。
 彼女の手のひらの暖かさはこれに似ていた。
 そう、手の暖かさだけじゃない。何もかもを、覚えている。その髪の柔らかさも、その声の綺麗さも、全てを。

 ━━━━既にこの世に彼女はいないのに。

 それは一年間の物語。
 桜が花を付け、咲いて、緑の葉を付けて、紅葉し、葉が落ち、また花を付ける。
 桜が一年を巡る、その期間だけの魔法。

 今は、それを思い出すために、桜の幹に手をあてたまま、瞳を閉じた。


 出会ったのはほんの偶然だった。
 この公園はあの日も暖かかった。あの日も、数人の子供達が数少ない遊具で遊び、また公園を駆けていた。
 毎年、ここの桜はどういう訳か、他の桜より先に花びらを付ける。それは地元では有名なことで、たくさん……といっても、他よりたくさんではあるが、人が集まる。
 それは子供連れの親子であったり。犬の散歩の途中であったり。駅の外れで露店で絵を売っている絵描きさんであったり。既に退職して、やることのないお爺さんの散歩であったり。
 彼女も、少し事情は違ったけれど、やっぱりそんな中の一人だった。

 あの日、僕はバイトに向かう途中、自転車でこの公園を通りかかった。
 少し早めの時間に家を出たので、余裕があった。
 だからだろう。その公園の前を通りかかった時、不意に聞こえた子供の鳴き声が耳に付いた。
 そっちを見ると、転んだのだろう子供が一人、泣いていた。周りに数人の子供が集まってきている。おそらく、一緒に遊んでいたのだろう。
 ほんの気まぐれだった。
 僕は乗っていた自転車を公園の入り口に止め、その子供の方へ近づいていった。
 と、僕よりも先に、子供へと近づいていく人がいた。
 それが、彼女だったんだ。


 僕は桜の木から手を離し、公園の中を歩いた。
 あの日と同じように、そこは数人の子供の声が響いていた。
 公園を駆け、遊んでいる子供達の邪魔をしないように、その公園の端を歩く。
 公園の端、そこには小さな水道場があった。隣にはベンチが据えられている。
 僕は少しの間、その水道を眺め、そして隣のベンチに腰掛けた。
 すると正面にあの桜が見える。
少しだけ離れているから、首を巡らせなくても、その桜の全体像がみえた。
 桜の側。その大きな桜の枝の下にも、今は桜の花びらに埋もれた、長椅子のベンチがある。
 彼女と出会ったあの日はまだ、さすがに早咲きのこの桜も、その花は咲掛けで、あのベンチもその枝の影に入ってはいたが、まだ日の光を浴びたての木のような、きれいな茶色をしていた。
 出会った日の景色とは、少しばかり違う。あの日はまだ時期的に早く、さすがに早咲きのこの桜も咲いていなかったのだから。


 「大丈夫?」
 彼女はその子供に声を掛けていた。綺麗なアルトが、近づいていった僕の耳に聞こえた。
 僕は彼女の白を基調としたその服よりも、綺麗な栗色をした、腰まで届くような、とても長い髪に目を引かれた。
 子供は……泣いていた子供だけではなく、周囲の子供達の顔が彼女を振り向いた。
 ただし、そこにある表情は警戒心であったと思う。
 彼女は薄く微笑んで、まるで子供達の警戒心を気にしていないかのように、泣いている子供の前に屈み込んだ。栗色の髪はそれに倣うようにふわりっ、と空気にたなびき、地面に触れた。
 その子供は、ほんの小学生に上がったかと言ったぐらいの少年だった。
 右膝に両手を当てて泣いていた。
 彼女はその細い右手を少年の手に上から重ねて、そっとどかした。転んだ時に擦りむいたのか、擦り傷ができ、血がにじんでいた。
 「大丈夫、男の子でしょ?」
 彼女は再び微笑んだ。
 彼女は少年の手のひらを、その細い手で血が付くことも躊躇わずに握ると、少年を立ち上がらせて、水道場へと導いた。その時は既に少年も泣き止んでいた。
 その水道場で彼女は少年の傷を丁寧に水で流した。
 その後、彼女はポケットより、真っ白なハンカチを取り出して、少年の傷にあてがおうとした。
 「ちょっと待って」
 「えっ?」
 僕はその時、彼女に声をかけた。幸い、白いハンカチはまだ白いままだった。
 彼女は初めて出会った僕に目をしばたかせていた。
 僕は腰に付けたポーチから、大きめの絆創膏と消毒液を取り出した。バイトをいくつか掛け持ちしている僕は職業柄か、そのポーチにいくらかの、医療品と呼ぶには貧相だが、消毒液や絆創膏が入れてあった。
 僕は、周りを囲んでいた子供達の輪の中にはいり、彼女の隣に屈み込んだ。
 「ちょっと染みるけど、我慢しろよ?」
 手早く消毒液を吹き付け、絆創膏をその膝に貼り付ける。
 「これで大丈夫」
 僕は笑顔で言った。
 「ありがとう、お兄ちゃん、お姉ちゃん」
 少年は立ち上がり、嬉しそうにお礼を言った。その時には周囲の子供達の表情からも、警戒心は消えていた。
 僕と彼女に向かって手を大きく振り、再び公園の中を駆けていった。
 「ははは、あれじゃあ、また転びそうだ」
 僕がそんなことを言えば、彼女はくすり、と笑い、「そうですね」と返してくれた。

 「どうしてあの子に関わろうと思ったんですか?」
 水道場の横にあるベンチに腰掛け、彼女は僕に聞いた。
 「今頃は関わりたがらない人が多いのに……」
 確かにそうだと思う。厄介ごとには関わらない。見て見ぬ振りだ。
 「そうだね……」
 どうして関わろうと思ったか。彼女の真っ白なハンカチに血が付いてしまうと思ったとき、不意に声が出ていた。
 少年の為じゃない。
 「エゴ……かな。結局は自分の為だよ」
 「正直……なんですね。少しぐらい嘘を言っても。かっこいい事言うと思ってました。」
 彼女は少し驚いた仕草を見せた。
 確かに、少しぐらい嘘をついても良かった。かっこいい事を口先だけでも言うことはできた。でも、僕はそれをしなかった。
 「少し、軽蔑した?」
 「いぇ、そんなことはないです。それを言ったら、私だって私の為に助けたんですから」
 彼女は少し自重気味に笑った。
 僕も、彼女も。そのエゴを語ることはしなかった。けれど、どこか似たものを感じたのかもしれない。
 「ここの桜……もうすぐ咲くんでしょうか……」
 不意に空いた間を埋めるように彼女が言った。
 「例年通りなら、もう数日もすればね」
 「本当に、他の桜より早いんですね……」
 どこか遠い目で、彼女は桜を眺めた。
 「結構有名なことだと思ってたんだけど……」
 「ぁ、違うんです。最近、こっちに移ってきたから……この桜のことも、人に聞いたんです」
 彼女は曖昧に笑った。
 少し歯切れの悪いように感じた。そのことについては、あまり話したくはないのだろうか。
 「桜を、見に来たの?」
 だから僕は、詮索はしなかった。ただ少し……あと少し、彼女と話していたかった。
 「えと、それは……あ、荷物、桜の下に置いてきたままでした」
 彼女は立ち上がると、照れ隠しか、かわいく笑ってみせる。
 僕の視力は悪くはない。桜の下のベンチ、確かに何かが置かれている。
 彼女は歩きながら桜へと向かった。それを追うように、僕もベンチから立ち上がった。
 ベンチの上には茶色の鞄が置かれていた。長い紐が付いているところを見ると、肩掛けタイプの鞄なのだろう。
 彼女は鞄を開き、中から大きな塊を取り出した。
 それはどこか古びた一眼レフのカメラだった。
 「これなんですよ、私がここに来たのは」
 「これ?このカメラ?」
 「はい」
 彼女はカメラを大事そうに抱え、微笑んだ。
 「このカメラは、いろいろな景色や、いろいろな人達の表情を記録していくために使っているんです。私は普通にある日常、幸せな瞬間、大切な時間を写真として留めておきたいんです」
 そのときの僕は、彼女のその言葉の意味を正確には理解できなかった。できなかったけれど、それでも彼女が抱えるカメラ、そしてそれに収められる風景は彼女にとって大切なものであることは、確かに僕に伝わった。
 「それじゃあ、今日も撮影をしに?」
 「うーん、撮影というよりは散歩……ですね。カメラはいつも持ち歩いてますし、気に入ったものを撮るんですよ」
 そういって、また笑う。
 その笑顔が、本人が気づいてないのかもしれないけど。
 ……。
 「あ、」
 彼女が何かに気が付いたように、カメラを構えた。
 その先には、まだ先程の子供達が走り回っている。
 カシャ、
 カメラが小さくシャッターをきった。
 カメラから目を離すと、彼女はまた笑った。
 「あの子たちも元気ですね。見ていて、こっちまで元気になるような気がします」
 「そうだね」
 本当に何でもない日常を写真に収めて、本当に何でもない日常に笑って。
 見ていると、こっちまで自然に笑顔が浮かんでくる。
 「この桜━━━━咲くまであとどのくらいでしょうか?」
 ふっ、と顔を上げ、大きな桜を見上げる。それにつられるように、僕も上を見上げた。
 大きな傘が陰になって、枝葉が揺れる度にその隙間から微かな光が射しこんでくる。
 その光を反射する。もう、花の蕾をつけているのが見て取れた。
 「そうだね……もうすぐだよ。ほんと、気が付いた時には咲いてるかもしれないよ」
 「そうですか。でも、気付いた時には咲いちゃったっていうのは淋しいですね」
 それでも、彼女は笑った。カメラをベンチから見上げるように上に向けて、シャッターを切る。
 「毎日、観察記録じゃないですけど、写真に収めていけば、毎日が楽しみになりますね。いつ咲くのかなって毎日桜を見てれば、気が付いたときには満開なんて事には、ならないですよね」
 嬉しそうに、本当に楽しそうにそんなことを言う。
 「日常……か。僕の場合、写真はあまり撮らないな。どうしてかと聞かれても、自分自身分からないけれど」
 「そうなんですか?確かにフィルムカメラはフィルム代やら現像代が掛かるから分かりますけど、デジカメは持ってないんですか?」
 「いや、デジカメは持ってるけど、何に使うわけもなく。タンスのどこかにしまったままかな、あれは」
 そもそも、買ったものじゃなく、貰ったものだ。四、五年前の古い物。画素数を見れば、もしかしたら携帯付属のカメラのほうが良い画像が撮れるだろう。
 「確かに、そう言われれば、デジカメって経済的だね。デジカメで撮った写真をインターネットなんかで公開してる人、今は結構多いみたいだし」
 と、これは友人に聞いたことだ。そいつも同じような事をやっているらしく、デジカメはいつも持ち歩いていた。
 パソコンを操る事に関して、まさに素人な僕には、そのあたりのインターネット事情はイマイチ分からない。といってもインターネットが使えないわけではなく、基本操作ぐらいはできる。ただ仕事で使ったり、といったことも少ないし、調べ事がある時以外は殆どパソコンに触らないからだ。
 「今はデジカメが主流になってきていますね。あれなら、フィルムの代わりに上書き可能な使い回しのメモリーに、書き込む物はデータ。経費的にも殆ど掛かりませんし、パソコンに取り込むにも簡単ですしね」
 「そうだね、確かに聞いてると使い勝手も良さそうだ。デジカメに乗り換える人が多いのも、分かる気がするよ。君はデジカメに変える予定とか、あるの?」
 いいえ、と彼女は言う。
 「確かにデジカメもその画像は綺麗になりましたし、経費的にも憧れはありますけど……私は、このカメラが好きなんですよ」
 照れたように笑いながら、手元に大事そうに抱えたカメラに視線を落とした。
 「フィルムが良い、と言う人は確かにいますけど、私はそこまでの拘りはないんです。デジカメはデジカメで良いところは沢山あります。ただ、私はこのカメラが手放せないんです。長い間使ってきて使い慣れている事もありますけど、多分、愛着なんでしょうね。デジカメでも、フィルムでも。他のカメラじゃない。この手元にあるカメラが大好きなんですよ」
 長年の相棒のようなものなんだろう。型が古い、とかそういったことは僕には分からないが、手入れが行き届いていることは分かる。大切に扱われてきたのだろう。
 なにか・・・・・・思い入れがあるのだろうか。それは僕に分かるものではなかった。
 「あなたはどうしてここへ?」
 彼女が顔を向けて、僕に尋ねた。
 「え、僕?」
 少し戸惑う。急に振り向かれたことで驚いた。
 少し、落ち着いてきたところで、彼女の言葉を思い出し、考える。
 そういえば、僕は何でここに来たんだっけ?
 僕は━━━━……
 ……っ!?
 「わ、忘れてたーっ!!」
 ベンチから勢いよく立ち上がる。唐突に叫び、立ち上がった僕に彼女が驚いた顔をしたが、そんなこと気にする余裕はない。
 だって……バイト向かうところだったんだ。
 多少、時間があったにせよ、携帯電話をポケットより取り出し、時刻表示をのぞくと、十の位がプラス2もされている。
 「ど、どうしたん……です、か?」
 「ば……バイト……忘れてた……」
 「ぇ、えぇー!?それ大丈夫なんですか!?」
 彼女が驚いたように声を上げる。
 当然、大丈夫━━━━のわけない。
 「ご、ごめん、僕いかなくちゃ」
 「ぁ、私、引き留めちゃいましたね……」
 少しだけ、彼女が俯いてしまった。
 僕は少し慌てた。ただ、彼女に笑って欲しくて。
 「いやいや、僕も忘れてたし、気にしないで。それに、ここで君と話すことは僕自身が好きでやったことだし。いや、ただ楽しかったんだ」
 そう言って、僕は少し慌てたままに笑った。
 彼女はその様子……端から見れば、よほど面白おかしく僕はあわてていたのか、彼女はぽかんと僕を見た後に、くすり、と小さく声を洩らして笑った。その表情に、再び笑みが戻った。
 「私も、楽しかったですよ。特に最後の慌てようは」
 「いや、その、あの慌てたのは……」
 「ほらほら、もう行かないと。バイト、さらに遅刻しちゃいますよ」
 彼女は笑ったまま、僕に手を振った。
 「あ、うん。それじゃあ……」
 少し言葉がきれる。無意識であったか、意識的にであったか、それは分からない。
 「それじゃあ、またね」
 口から出てきた言葉は『さようなら』じゃなかったんだ。
 「はぃ。それでは、また」
 ただ自然に挨拶が交わされた。僕は自転車にまたがり、彼女は笑って僕を見送った。
 そう、それだけ。
 名前もなにも知らない彼女との、ただそれだけの物語だったんだ。
 ━━━━その時は。






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