願い星
| 丘の上には一本の桜と、小さな小屋がありました。 小屋にはまだ若い、中の良い夫婦が住んでいました。 結婚してすぐに、桜の下に小屋を建て、住み着いたのです。 少し麓の町からは離れた場所。 どうしてこんな場所に?人々は男に問いました。 ただ、綺麗な桜がそこにあったから。男は答えます。 彼は絵描きだったのです。 春は桜が彼ら夫婦を歓迎し咲き乱れます。彼はその桜を真っ白なキャンパスに描き出し、彼女は彼のために紅茶を運びました。明るく笑いかけ、彼の絵をずっと眺めていました。 夏は桜の下に椅子を持ち出して、日陰となったその下で食事を食べます。彼女は料理が凄く上手で、彼を毎日喜ばせました。夏の緑は、その彼のキャンパスにまた記録されました。 秋にはその桜の下を夫婦は竹箒を操って掃除します。彼はその紅葉をまたキャンパスに描き出し、ある日に彼女も描いてみたいといいました。しかし、彼女の絵は上手ではなく、彼女は笑ってまた彼の側で彼の描き出す絵を眺めていました。 秋にはその桜の下で雪だるまを作りました。彼女は遊ぶのが大好きで、暇があれば彼を誘い出しました。彼はまた家の中から、彼女と一緒に作り出した雪だるまを絵に書きました。 しかし、それは一年だけの物語。 次の年、彼女は病気に掛かってしまいました。 来る日も来る日も男は女を看病し、一年が巡っていきました。 そしてその年の秋の終わりに、彼女は息をしなくなりました。 その冬、去年なら外に出て明るかった男はまったく出歩かなくなり、丘の麓の町にも、必要最低限の買い物を除いて出歩かなくなりました。 男はその冬を、ずっと悲しみの中、家に閉じこもってしまっていたのです。 絵を描く姿も、めっきり見なくなりました。 「君の本当の願いは、なんだい?」 あるとき、見たことのない青年が語り掛けました。 「うん、わかるよ。それが君の本当の願いだね。」 そしてやさしげに微笑みます。 「ただ、それには制限があるんだ。」 『彼』は少しの条件をだしました。でもそれは仕方の無いことだったのです。 「うん、見守っている。」 『彼』は手をかざしました。 「君の願いを、叶えよう。」 冬の終わりのころ、男はまだ家に閉じこもっていました。丘の麓の友人達もとても心配していました。しかし、男は落ち込んだまま、家から必要最低限以上には出なかったのです。 ある雨の日です。その丘の上の家に小さなノックの音が響きました。 コンコン、と木の扉をたたく小さなノック。 日々、家の中で呆然としていた男は、重い動作で立ち上がり、その扉を開きました。 そこには少女が一人。雨に濡れて立っていました。 「雨宿りをさせて欲しいのです。」 濡れた少女はいいました。まだ10かそこそこという程度の容姿の少女です。 短めに切られた、薄茶色の髪の毛から水が滴っています。 服も濡れ、その小さな体に張り付いてしまっているみたいです。 どこか彼女に似ている。不意に彼は思いました。 「どうしてここにきた?麓の町に住んでいる子だろう」 彼はいいます。 「麓の町じゃない。この近く」 少女は答えます。 「ならば、家に帰ればいいだろう?」 「今は帰れないの」 「どうして?」 「わからない。」 少女は答えます。彼は困ってしまいました。人に会いたくは無かったのです。しかし、少女をこの雨の中追い返すことも出来ず、彼は家の中へと少女を招き入れました。 「これで体でも拭くといい。」 彼は少女の体には大きなタオルを少女の頭から被せました。そして、今まで入ることの無かった部屋の扉を開けたのです。 それはいなくなってしまった彼女の部屋。少しの間放って置いたせいか、少し埃っぽい気がします。 ずっと入るつもりの無かった部屋。彼女の思い出が詰っている部屋。 彼は意を決して部屋に入ると、彼女の衣類箱から適当なものを選び出し、少女の元へと戻りました。 「まだ寒い季節だ。その服では風邪を引いてしまうだろう?これに着替えなさい。」 彼は少女に向かって、その衣類を渡しました。 「ありがとう」 そういって少女はタオルの隙間から笑いました。やはりどこか彼女に似ている・・・・・・彼はその思いを振り払うように、自室へと戻りました。 ある程度時間を置いて、少女が着替え終えたのを見計らって、少女のいる場所へと戻ってきます。 少女は彼女の服を着ています。自分が渡した物ながら、体格の違う少女にはぶかぶかで、なかなかおかしな格好になっていました。 しかしそれにも彼は笑えませんでした。まだ、彼は彼女がいなくなった日以来、笑ったことがありません。 少し陰鬱なまま、彼は少女に問いました。 「君の家はどこだ?」 「この近くのはず」 少女は答えます。 「では、どうしてここにきたんだ?」 「気がつけば、目の前にこの家があったから」 そのあとの質問にも、少女はあいまいな答えしか返しませんでした。何を聞いても、分らないといった様子です。 彼は困り果てました。本来なら家から放り出せばいいのでしょうが、相手はまだ少女。それに、彼女が言ったことがどれだけ曖昧であっても、まるで嘘を言っているようには聞こえなかったからです。 「仕方ない。もう夜になる。今日はこの家に泊まりなさい」 彼はいいました。明日になって、それでも何も分らないというようであれば、麓の町の警察に任せればいい。そう思ったのです。 「ありがとう」 そういって少女は笑顔を浮かべました。 彼は適当にスープをこしらえ、夕食として少女にも分け与えました。 まるで料理の下手な彼のスープでしたが、それでも少女はおいしい、と喜んで食べました。 一晩があけて、彼はその少女をつれて麓の町へと降りました。 流石に、だぶだぶの服のままの少女を連れて行くわけにも行かなかったので、彼は彼女に元着ていた服へと着替えるように言い、一晩で乾いた服を渡しました。 数分の道のりを少女を引っ張って歩きます。少女の歩幅は彼よりも小さかったので、ゆっくりと少女にあわせ、いつもの二倍の時間をかけて町へと出ました。 「捜索願のようなものは出されていないですね。この近所の子でもなさそうです」 町の警察でお巡りさんに少女を連れて行くと、お巡りさんは沢山の書類を調べてくれた後にそういいました。 「この町の子供なら、そんなに大きな町じゃないですし、顔が分るはずです。」 「では、どうしたら?」 彼はお巡りさんに聞きました。 「私たちのほうで預かりましょう」 お巡りさんはそう言って、少女に手を差し伸べました。しかし、少女は無言のまま、彼のズボンの裾をキュッと握り締めました。 彼はほとほと困り果てました。 「さぁ、お巡りさんのほうに行きなさい」 「いや」 少女は小さく答えます。昨日の笑顔がまるで嘘のように、少女は不安そうに俯いたまま、彼のズボンの裾をもっと強く握り締めました。 「困りましたね。相当好かれているみたいです。どうしますか?」 お巡りさんは困ったような、しかしそれでいて少し羨ましそうに笑いました。 「どうでしょうか?あなたのほうで預かっていただけますか?何か情報があれば、連絡しますので」 そういって、お巡りさんは住んでいる場所などのメモをとって、彼と少女を外へと送り出しました。 しかし困ったのは彼です。 どうして断れなかったんだろう。彼は自分で考えます。 たぶん、自分自身が、少しでも彼女を少女に重ねてしまったせいか、と思います。 彼は不安そうに見上げる少女の頭をわしゃわしゃと撫でました。 少女はくすぐったそうにはにかんだ後、彼を見上げて笑いました。 それから、いつ終わるかもわからない共同生活が始まりました。 彼の生活が大きく変わったのも当然でしょうか。 まず、家の中が一気に綺麗になりました。 少女はとても働き者で、彼女が来てからというもの、毎日のように部屋を掃除しました。最初は、彼は今までと同じように何をやるわけではなくただ日々を過ごしていましたが、少女の身長では危ない高さのところの掃除を手伝うようになり、いつの間にかともに掃除するようになりました。 そして食事がとてもおいしくなりました。 少女は彼女と同じようにとても料理が上手で、彼の分を含め、毎日違う料理をおいしく作ります。彼は次第に毎食の食事を取るようになり、今では毎食の食事のメニューが楽しみになっていました。 さらに、外に出るようになりました。 二人分の衣食住を賄うには、買出しの回数も彼一人の時より多くなりました。そのたびに少女と出かけては、彼女の生活用品を買い、また少しの散歩をして。次第に昼間も外に出ることが多くなりました。 いつしか自然に少女の動作一つ一つに追われて、慌ててみたり。 食事に対しておいしい、と感想をこぼすのも日常になりました。 季節は冬から春へと向かいます。 次第に二人の生活に彼も、少女も慣れて来たころ。 まだ町から少女に関することは何も入ってきてはいませんでした。 次第に暖かくなってきたころ、彼は再び筆を取りました。部屋の窓から見える小さな風景、それを白いキャンパスに描き始めたのです。 二人での生活になって、生活のためのお金もだんだんとなくなってきたからです。 そうして、いままで仕事をしていなかった彼は彼女がいなくなった後、初めて絵筆を取ったのです。 「絵を描くの?」 少女が聞きます。 「もともと描いていたんだ。最近はめっきりやっていなかったけど」 彼は白いキャンパスにただ筆を下ろします。 それを見た少女は聞きました。 「何を描いているの?」 「この窓から見える風景を・・・・・・」 そういって、彼は続きを描きます。少女はただ、隣に座って彼の絵を眺めていました。 水色の絵の具が白を染めて空を作りました。 緑色の絵の具が白を染めて草原を作りました。 沢山の色が描き出す、その魔法のような瞬間に、少女はずっと目を奪われてしまっていました。 「きれい・・・・・・でもどこか寂しい感じがする」 出来上がった絵を見て、少女はそういいました。 「寂しい?」 「うん、だってだれもこの中にはいないんだもの。木が一本だけ一人ぼっちで。」 問い返した彼に、少女はただ思うままに答えました。 そういわれ、彼が再び描きあげた絵を見ると、確かに。描きあがったつもりが、凄く何かが欠けているように思えて仕方なくなりました。 「ひとりぼっち・・・・・・か。」 そう、ずっと一人。何気ない風景の中に、いまはもう彼女はいないのです。 その後、何かを書き加えるでもなく黙り込んでしまった彼に、少女は戸惑いました。 なにか言葉を掛けようにも、それすら思い浮かばず、ただ視線は彼の筆先と絵の間を往復しました。 少女はただ、その絵を眺めます。明るい色の使われた綺麗な風景画でした。 でもやはりどこか寂しく感じるのです。 「どうして絵を描いているの?」 不思議に思って聞いてみます。 「どうしてだろうね、自分でも分らないんだ」 彼はいいます。 「最初は好きだったから描いていたはずなんだけれどね。いまはどうしてかわからない」 そういって彼は今日の筆を置きました。 「食事にしようか。もうこんな時間だ」 そういって窓の外を指します。外はいつの間にか綺麗な夕焼けに包まれていたのです。 夕飯の準備をしよう。そういって彼は部屋を出て行きました。 少女は彼の後を追うように、そのキャンパスの前を離れました。 「私も絵を描いてみたい」 その次の日、彼が筆を取る前、少女は言いました。 彼は驚きました。 「いったいどうしたんだい?突然そんなことを言い出すなんて。」 少女は言いました。 「ただ、描いているあなたの筆が、まるで魔法みたいに綺麗だったから」 少女はただ、驚いていたのです。彼が絵を描く様が、本当に凄く素敵で。 「私もあなたみたいな絵を描いてみたい」 彼はそんな少女に、いつかの彼女を思わず想わずにはいられませんでした。 彼はそんな少女に、横の机に置かれたスケッチブックを取り数枚捲った後、真っ白なページを見せていいました。 「この真っ白なページに好きなものを描いてごらん」 少女は嬉しそうに笑って、一本の筆を持つと、緑色の水に筆をつけて、スケッチブックに一本の線を引きました。 「うわぁ」 緑の鮮やかな一本の線。少女はそのあと何度も、同じように緑の線を引きました。 「うわ、うわぁ」 一本ごとに声を出して驚く少女。 白いページの下半分ほどを緑で染めると、今度は水色の水に筆をつけて、上半分を水色に染めました。 一本一本におどろいて、一本一本に笑って。 いつの間にか、そこには水色の空と、緑の草原が出来あがっていました。 「この後どうしたらいいの?あなたみたいな綺麗な絵が描きたいのに」 少女は聞きました。真っ白なところ全てを塗り終えて、これ以上どうしたらいいのか、少女には分らなかったのです。 「それは違うよ。絵を真似て絵を描くんじゃない。自分の見えたものを書いたらいいんだよ」 彼は言いました。そうして、彼は少女のパレットに色をいくつも作ってあげました。 「なんでもいいんだ。雲があって、太陽があって。桜の木があって、遠くには町が見えて。描ける物はたくさんあるんだ」 彼はそう言い、窓の外を指差しました。少女がその先を追うと、まだ窓の外の世界には、たくさんのものがあることを少女は知ったのです。 「うん。やってみる」 そうして、彼女は再び絵筆を取りました。彼はそんな少女の姿を見やって、また自分の絵筆を取りました。 一日、一日と時間が過ぎていきます。 彼は一枚の絵に何日も費やすように、丁寧に絵を描きました。 少女は一枚の絵を書き上げては、う〜ん、と唸ってまた次の絵に。一日に何枚も何枚も絵を描きました。 少女の絵は、決してうまいものではありませんでしたが、それでもどこか暖かさのある絵をたくさんたくさん描きました。 それがいつの間にか日課になって。 二人の間の会話はあまり多いものではありませんでしたが、しかし、その時間はとても暖かいものだ、と彼も、そして少女も感じていたのです。 そして・・・・・・冬があけて、春が本格的に暖かくなってきたころ、丘の小屋の前の大きな一本桜のつぼみが一つ一つ開き始めました。 「ごめんね。」 『彼』はいいました。 「君の本当の願いは、永遠ではいられないんだ」 『彼』はただ、謝ります。 「うん。・・・・・・最後まで見届けるよ。」 いつものように絵を描いて。いつものように買い物をして。いつものように食事を作って。 少女はとても幸せでした。一つ、彼がまだ笑わないことを除いては。 彼はどうしたら笑ってくれるんだろう。少女は考えます。 そして、一つのことを実行に移すことに決めたのです 次の日、いつものように絵を描いていると、少女はいつもとは違い、彼をじっと見ていました。 「いったいどうしたんだい?今日は」 彼は言います。しかし少女は首を振るばかり。スケッチブックは片手に、絵筆も持っています。確かに何かの絵は描いているようですが、今少女の向いている方向に景色はありません。 「今は、何を描いていたんだ?」 「だめ」 少女の絵を除こうとした彼を、少女は小さな体の後ろにスケッチブックを隠し、首を振りました。 「今は、だめ」 「じゃぁ、完成したらいつものように見せてくれるのか?」 そう彼が聞くと、少女は首を縦に振りました。 「わかった。じゃぁ今は見ないよ」 そう言って彼は元の絵に戻りました。それを確認するようにしてから、少女はスケッチブックを取り出して、再びどこを向いてか絵を描き始めました。 それからまた数日が経ちました。丘の上の桜がついには咲き誇ったころ、その生活に大きな変化が訪れたのです。 それは誰が望んだものではなく。 朝、彼が起き出したころ、いつもはキッチンのほうで朝食を作る音がするのに、それが聞こえません。 キッチンに足を向けても、そこには少女の姿はなく。不審に思った彼は、少女に与えた部屋へと足を運びました。 こんこん、と軽くノックをします。 「今日はどうしたんだ?起きているか?」 しかしどれだけ待っても、少女からの返事はありません。だんだん不安に思ってきた彼は、意を決して、 「悪い、入るぞ」 と中に声を書け、扉を開けました。 瞬間のことでした。太陽の光よりも眩しい、フラッシュのような光が部屋から溢れたのです。 彼は思わず左手を翳しました。その光は一瞬でしかし一瞬だったにもかかわらず、彼はその眩しさに目が眩みました。 すぐに見えるようになりましたが、その光は未だそこにありました。 眩しいものではありません。ほんの薄く淡い光になって、ベッドの上の彼女から。 彼は目を疑いました。その少女が息を乱し、淡く光っているのです。 「おい、何があったっ!大丈夫か!?」 彼は駆け寄りました。しかし少女の返事はなく、息を乱しうなされたまま、沢山の汗をかいていました。 彼はすぐにキッチンより水を汲んできて、タオルをタンスから引っ張り出し、少女のところへと走りました。 不思議な光は未だ少女の体からもれ続けていましたが、少女に触れても、それがいったい何なのかわかりません。彼はそれより、とタオルを水に浸し、少女の額の汗をぬぐってやりました。 彼の看病は続きました。その日は彼は筆を握ることはなく、ただ少女の側でうなされる少女を介抱し続けたのです。 夜中、彼は少女のそばで介抱したままに眠ってしまいました。 目が覚め、気がつくといつの間にか少女の光は消えうせ、少女の呼吸も落ち着いていました。 「よかった。」 彼は一人、ため息をつくと、そのまままた、少女のベッドに寄り添うように眠りに落ちました。 翌日、介抱のかいがあってか、少女は夜に意識を取り戻しました。 「いったい今日はどうしたんだ?」 「わからない、突然苦しくなったの。」 少女は答えます。 そういえば、と彼は思います。 彼は少女のことをまったく知りません。少女も、少女自身のことを知らないみたいで、何を聞いてもわからないというばかり。 「あの光はいったい・・・?」 「苦しくなったときに、光りだしたの。でも私にもよくわからなくて」 少女が言いました。だから彼も、それ以上に何かを聞くことは出来なかったのです。 「今日は休んでろ。まだ体調は完全じゃないだろ?」 「行っちゃうの?」 「・・・・・・わかった。ちょっと荷物だけ取ってくるよ。」 彼はそういって、部屋から一度出ていいました。ほんの一、二分後、彼が戻ってくると、その手にはいつもの画材がありました。 「今日は、ここで絵をかくから。」 彼は少女が寂しくならないように、また体調が崩れてしまったときに助けられるように。 その日、彼は三枚の絵を描きました。 仕事として描いている絵は、今少女の部屋からは見えない風景なので、彼が今日描いたものは別のもの。 一枚は部屋の風景を。 もともと彼女の部屋だったもの。いまは少女の部屋。 変えたもの、変わった物。そのままの物。それらを見るたびに、彼女との思い出を。少女とのこの数日間の思い出を思い返しながら。 不意に涙が溢れてきたのです。 何が悲しいのかわかりません。何が変わったのかわかりません。 その部屋の一つ一つを、絵の中に留めおくように。 「どうして泣いているの?」 「わからないんだ・・・・・・お前と同じだな」 そういって彼は表情を歪めました。右手で涙を拭い、また筆を取ります。 少女はただ不思議そうに彼を見ました。 どうしてだろう?彼は問います。 分りきっていました。少女はあまりにも彼女に似ているから・・・・・・ そして、いつの間にか少女も彼女と同じように大切な存在になっていたから・・・・・・ 彼女の思い出も、少女の思い出も。 彼の中では大きな物に変わっていたから。 その一枚が完成するころ、少女はいつの間にか眠っていました。 その寝顔を見ていた彼は、何かを思いついたように次の絵に取り掛かります。 二枚目の絵が完成したころ、窓の外は夜になっていました。 彼は一枚目の絵、二枚目の絵を自室へと持って行き、置くと、夕食の準備に取り掛かりました。 「もう絵は完成したの?」 「あれ?起こしちゃったか」 少女が目を覚ましたころ、彼は作った夕食を部屋へと運んでいました。 「お前のように、上手くは作れなかったけれど」 そういって、小さなテーブルの上に皿を運びました。 「もう、体調的に食べられるか?」 「うん」 少女は嬉しそうに笑うと、体を起こして、その暖かなシチューの皿を彼から受け取りました。 「おいしいよ、とっても」 「そうか、最近料理なんて作ってなかったからな、自信はなかったんだ。」 そういって彼は自然に、本当に自然に微笑んだのです。 彼は、笑顔を取り戻しました。少女はまたそれを口にすることはなかったけれど、それを見て笑顔を浮かべました。 そうしてその一日を少女と共に過ごしたのです。 今日最後の一枚の絵は夜に描きました。少女の側で、屋根に抜けた小さな天窓から除く星空を眺め、そして他愛もないことを少女と話しながら。 「ここからなら晴れていれば綺麗な星空が見えるだろ?」 「うん、夜はとても綺麗。眠れないときはその微かな光がとても暖かく感じる・・・・・・」 蝋燭を一本だけ。ほの暗い部屋からは、その星々がよく見えました。 「思い出すよ。あそこにある星の並びが見えるかい?綺麗に輝く三角形が」 指をさして、その星を示します。真上より東側、窓をのぞいた薄い光がそこにあります。 「うん。」 それは彼が過去に、今は既にいない彼女から教えてもらったこと。 「あれはデネボラという星さ。それの東に見えるのがアルクトウルス。少し東南に行ったほうに見える明るい星がスピカ。それを繋いで、春の大三角形というんだ。」 彼の指の先を追うように、少女の瞳が動きます。 「そしてアルクトウルスとスピカを繋いだ延長線上」 す、と指先をスライドさせて先を示します。 「そこにある七つの星、あれが北斗七星だよ。柄杓の形に見える、と昔の人はよく言ったそうだよ。」 「うわぁ・・・・・・」 彼は星を指差しては沢山の星座、星の名前、以前に彼女に教えてもらったことを、少女にたくさん話しました。 少女は彼の一言一言に驚いたり、笑ったり。 そうして、彼は少女が再び寝付くまで、側で話していたのです。 どうしてだろう?彼は自身に問います。 分りきっていました。少女はあまりにも彼女に似ているから・・・・・・ そして・・・・・・ 彼は絵を描きました。その少女の絵を。 今の生活がいつまでも続くとは思っていません。そのぐらい、彼にも分っていました。 だからこそ、今を大切にしたくて。 少女がここにいるうちに、なにもを分らない、忘れてしまった少女にたくさんのものを与えてあげたいと思ったのです。 自分自身に、何かを残したいと思ったのです。 そうして、彼は少女が眠っているうちに、絵を書き上げて、少女にそれを見つからないように自室の奥にしまったのです。 しかし、彼は気がつかなかったのです。気がつかないようにしていたのかもしれません。 それでも、どこかで分っていたのかもしれません。 翌朝、彼がそこへ行くと少女は再び発光していました。 また苦しそうに、ただうなされて。 「どうして・・・・・・!!」 彼はただ一生懸命に少女を介抱しました。」 彼は何も分らない・・・・・・いや、分らない振りをしていたのかもしれません。 発光が収まり、彼女が落ち着いたとき、それは確実な物として少女を蝕んでいたのです。 「気がついているんだそう?君は」 彼が自室で目を覚ましたとき、そこには青年がいました。 唐突にそこに現れたはずなのに、しかしそれを不思議と感じさせない青年。 「あの子の症状は病とかじゃない。」 「分ってるさ!!あんなにも消えそうになっているんだ!!」 彼は叫びました。受け入れるしかない現実。現実にありえないことが少女に起こっているのを目の前で見てしまっているのだから。 少女の体は発光が終わった後、薄くなっていたのですから。 「あの子はなんだ・・・・・・いや、そんなことよりも、どうすればあの子を救える!?」 彼は分ってしまったのです。このままでは彼女は消えてしまう・・・・・・と。 青年は答えました。 「それはあの子自身が決めた時間制限だ。僕にはどうしようもないさ。」 「どういうこと、だ?」 「僕はただ願いを叶え、見守るもの。ただ、あの子の願いを叶えるために」 青年は淡々と、彼に語りました。 「ふざけるな!!あれがあの子の願いだというのか!!」 彼は怒りました。そんなはずがない、と。 「あの子は苦しんでいる!!そんなことを望むというのか!!」 「だから僕は叶えた。こうなることを分っていてなお、あの子は願ったのだから」 そこに嘘はない、と青年はいいます。ただ、表情は悲しそうなまま、それでいて何一つ手を出すことはない、と。 「なら、俺の願いを叶えてくれ!!あの子を助けてくれ!!」 彼は青年に懇願します。しかし青年は決して首を縦に振ることはありませんでした。 「僕はあの子のためにここにいる。今の僕は、あの子の願い星だから。」 青年はただ悲しげなまま、彼に言います。 「君が思うように行動するといいよ。制限時間は迫っているのだから」 窓から風邪が吹き込みました。机の上の本がページをはためかせ、スケッチブックが開き、窓から外の桜の花びらが舞い込みました。 次の瞬間、彼の前にその青年はいなかったのです。 彼は少女に尽くしました。毎朝、少女は発光に苦しみ、光が収まれば体はどんどんと薄くなって。 でもその時間は、最初と比べてぜんぜん短くなり、毎朝の30分ほどの時間でした。 体が薄くなる。それに気がついていない筈はないのに。 それでも、彼がいるときに少女は必ず笑っていました。 「私は思い出したから」 それが最近の少女の口癖で。しかし彼が何を聞いたところで、少女が答えることはありませんでした。 日常の中で彼は、少女になにかと仕事を変わるといっては、少女を休ませようとしました。 それでも少女は決して譲らず、彼のために笑って食事を作るのです。 その生活も数日、決して長くはないと、彼も少女も分っているのに。 少女は常に笑い、彼は少女のために笑っていました。 少女は全てを思い出したとき、そこに最後の日が訪れるのです。 「ねぇ」 ある夜、少女が言いました。 「うん?」 もう既に蝋燭の火は消え、時刻は右で針が重なるころでした。 少しの時間が大切で、彼は少女の側で夜を明かすことが増えました。 「もう、私はあなたに触れなくなる」 「なにを・・・・・・」 少女の唐突の言葉に彼は驚き、そして悲しみました。 「私はね、願い事があったの」 少女はただ、彼に語ります。 「この家に一人残されたあなたは、ただ寂しそうで。毎日家に閉じこもっていた。前のようには笑わなくなったし、なにをやる気力もなくなってしまったみたいに見えて。」 そういって少女は真上を見上げます。その部屋の天窓から、またいつかのように沢山の星々が見えていました。 「だから願った。あなたが元気になりますように。また、笑って絵が描けます様に・・・・・・って。」 「それは・・・・・・」 彼が何かを言おうとした所を、少女は首を横に振って彼の言葉を留めました。 「私はね・・・・・・だからあの人にお願いしたの。あなたを元気にしたいから、話が出来るようにしてくださいって。」 少女は言いました。ただ薄く笑ったまま、決して表情を崩さずに。 「それも、今夜で終わり。」 「なにを・・・・・・っ!?」 彼は叫びました。 「分るんだ、自分のことだから。もう限界なのが分っているから」 少女がそういうと、彼が言えることは無くなってしましました。結局今まで、少女が消えてしまうと分っていて、何も出来なくて。 少しの沈黙がそこにありました。 静かに、彼が口を開きます。 「俺は、さ。お前に結構励まされたよ。彼女が消えてからふさぎ込んでいて、唐突にここに来たお前を少し迷惑だと思っていた。ずぶ濡れな野良猫を拾った気分だったよ」 「野良猫とは、ひどい」 そういって彼女は少し怒ったような表情を作ってみせる。 「そういうな。あの時は本当にそう思っていたんだから。お前を預け置くことも出来なくて、とりあえず家に置いた。いつの間にかだったよ。ちょっとした雰囲気が彼女に似ていて、何かと頑張り屋で、遊んでいたと思ったらいつの間にか真剣になってみたり。」 思い返すように、彼は上を見上げます。 「たぶん、彼女と重ねていたんだろうな。その生活が続いていくうちに、凄く彼女に似ていると思えて、また同じぐらいお前が違う人間だと分った。それでも、その生活は凄く楽しかった。」 「うん・・・・・・私も楽しかった。一緒に絵を描いたり、星を眺めたり・・・・・・何もなかった私という器に、たくさんのものを注ぎ込んでくれた」 彼は何を少女に話したかったのか分らなくなっていました。ただ、その短い間の思い出を、少女と思い出すように、いくつもいくつも言葉を重ねました。 かち、かち、という時計の音が、ただ時間が進んでいることを教えてくれます。天窓はだんだんと空の茜色を映し出していました。 「もう、朝焼け。時間だよ。」 少女は笑っていいます。 「ああ」 彼自身、何を言っていいのか分らなくて。 「私の願いは、叶ったよ。あなたは明るくなった」 「ああ」 唐突に訪れた野良猫がいなくなるだけだ・・・・・・そう言い聞かせたところで、そんなことはもう二度と考えられなくなっていて。 「もう、笑っていられるよね?」 「あ、あ」 少女の表情が見られなくて。 「私は、これからも見ているよ。声は掛けられないけど、ずっと側で見ているから」 「あ・・・・・・」 日が、窓から差し込んできます。彼は振り返りました。 「あ、ありがとう、な。お前は、彼女じゃない。ただ一人、突然訪れた猫のままだったよ」 彼は、そのときになっても思ったことがそのままに言葉にすることは出来ませんでした。それでも、少女は笑ったまま彼を見つめていました。 「さようなら。」 「ああ、さよならだ。」 窓からの光が、少女の足元から照らしだし、そこから少女は消えていきます。 「・・・・・・つ、」 彼は唇をかみ締め、最後まで笑っていようと決めたのです。 足首から膝、腰、体。徐々に消えていきます。 全てが消える直前に、少女は今までで一番の笑顔を浮かべました。 「っ、なあっ!お前の名前は・・・・・・っ!」 彼は最後につかもうと手を伸ばします。 「私の名前は・・・・・・」 しかし、その手が再び少女を捕らえることはありませんでした。 「―――桜、だよ。」 少女の声が、体が、まるで一夜の夢のように空に消えました。 夜が、明けたのです。 ある町の丘の上には画家が住んでいました。 その丘には綺麗な桜が一本立っていました。 毎年、綺麗な花を咲かせる桜は、麓の町でも有名で、お金持ちの富豪たちは、その桜を求める人も少なくはありませんでした。 しかし、画家はどれだけのお金を詰れても、決して桜も丘も手放すことはなかったといいます。 彼の描く桜の絵は、どれもとても綺麗な物で、人々に沢山の笑顔を与えました。 沢山の絵を描き続け、沢山の笑顔を与え続けた画家は、またいつでも笑っていたといいます。 あるとき、記者が画家を訪ね、あなたの一番の絵は何ですか?その笑顔の原動力は?と尋ねた時、画家はこう答えたそうです。 「私の笑顔の原動力は一枚の絵だよ。そして、それはほかの人にとっては何でもないものかもしれないけれど、私にとっては何にもかけがえのない宝なんだ。」 綺麗な丘の上の桜の木は、もう春の終わりを告げるかのように、花吹雪を吹かせています。 ふいに吹いた風が、彼の部屋の窓から吹き込みました。それは彼の部屋の机の上に置かれた彼女と少女のスケッチブックを捲りました。 開いたページは、左右に同じ絵で、しかし違う描き方の絵が描かれていました。 一枚は彼女の描いたもの。 そして一枚は少女の描いたもの。 両方とも、一人の若い男が、キャンパスに向かう姿を描いた物。 それはとても絵として売り物にできる物ではありません。 しかし、それは、彼にとっての永遠の宝物であったといいます。 それは━━━━ 春の星空の下の、大切な物を見つけた画家の物語。 |